昔鉄(60年代の国鉄・私鉄) ブログトップ
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藤崎台駅を探しに…~承前 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 カメラを壊してしまい、途中中断のやむなきに至った新京成の廃線探訪企画、お陰様でカメラの修理も終わり戻って参りましたので、仕切り直しです。(前回の記事はこちら)
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-11-28

 今回はちょっと趣を変えて、JRの津田沼駅からスタート。北口を降りて駅前のペディストリアンデッキを渡り、階段を降りてパチンコ屋のカドを曲がる。そこに新京成の踏切があるのですが、このあたりが新京成・新津田沼駅の初代と三代目の駅があった場所。現在の駅は四代目にあたります。
 じつはめざす藤崎台駅は、最初、二代目新津田沼駅として開業した経緯があり(三代目が開業して駅名を改称)、あわせて初代&三代目のあった場所を表敬訪問しておこう、というわけです。
 R140の急カーブ。車輪を軋らせて、京成千葉線直通の85008000形がやってきました。左側の白いビルはパルコですね。
01新津田沼8511.JPG


 そういえば、12月10日で京成千葉線への直通開始から5周年だそうで、新京成各駅では記念乗車券を販売しているそうです。

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恥ずかしい写真~C62「はくつる」~ [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

「恥ずかしい写真」とタイトルを打ってから、昔のエッチな雑誌の下段に並んでいた広告を思い出してしまった私は、けっこう恥ずかしい…。

 そもそもCedarさんのご幼少のみぎりのちょっとしたオイタの記事
http://cedarben.blog.so-net.ne.jp/2011-12-08
 のコメントに迂闊にも「恥ずかしいネタならいっぱいありまっせ」とヤッてしまったのがいけない。「是非公開を」と返されては、棺桶の蓋が閉じるまで秘匿し続け、あの世に持っていくつもりだった「恥掻きネタ」を出さないわけにはいかなくなりました。

 心ある、正しき鉄道ファンの皆様の顰蹙を買うのは覚悟の上で、ホームラン級のアホ写真をお目にかけることにします。
 時は昭和40年(1965年)、場所は仙台機関区。
 この写真であります(ああ、恥ずかしい)。
001.jpg

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セーシュンの新小岩機関区~D51編 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

相変わらず更新ペースが滞っております。
 昨夜なぞも写真を用意して、「さぁ、記事を書くぞ!」と思っていたのに晩酌しているうちに睡魔に襲われあえなくZZZ…なありさまです。
 さて、ハチロク編、C57編と2度に渡って掲載してきた、新小岩機関区の昔写真シリーズ。ものの順序からすれば、当然D51の出番です。
01_D511051_4007.jpg


 前の記事を読み返してみると、「ただ単に機関車の写真を番号順に並べただけじゃん!?」と自分にツッコミを入れたくなるような内容なのですが、事実そうなんだから仕方がありませんね(笑)。まぁ新小岩機関区が、当時中坊の私にとっては遊び場…といったら語弊があるかな…もっとガキの時分、そこにいけば誰か友だちに会える「原っぱ」みたいな存在で、そこにいた色の黒い友達が蒸気機関車、それをテキトーにスナップしていただけなのですから。

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貴婦人の地味~なお仕事 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 誰が言い出したのか、機関車C57のニックネーム「貴婦人」。
 いや、別に異を唱えようってわけじゃないんです。亜幹線の優等列車の先頭に立って颯爽と風を切る、スタイリッシュなC57のイメージには、なかなか合っているニックネームだと思ってます。
00佐倉機関区.jpg


 だけど…個人的な体験でいえば…もっぱら地元・千葉で見かけたC57のことですが…貴婦人と呼ぶにはちょっとばかり地味な印象が拭えません。客車列車を牽いて、両国や上野にやってきたり、海と山が交錯する房総西線を、テールマークをつけた夏臨の客車を牽いたりするのが千葉のC57のハレの姿だとすれば、日常ではこんな地味な運用もあったという…今回は「貨物列車を牽くC57」の画像を集めてみました。

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昭和41年の都内ドライブ~都電を眺めながら~ [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 大昔のネガを眺めていると、その写真を撮ったシチュエーションがどうにも思い出せないことがままあります。35ミリフィルムだと、1スリーブに6カット写っているので、前後の関係もつかみやすいのですが、フィルムの最初や最後に1コマ2コマ、バラけたものがあります。それがまた、迷子になりやすい。この写真もそんなひとつです。
 建物が密集した街並みの中を走って来る都電、系統番号の「4」は読めるし、形式も1000形のようです。どこかのビルから見下ろしているようですが、まったく覚えがありません。4番の都電は五反田駅前から清正公前、古川橋を経て一の橋で右折、赤羽橋、芝園橋を通って、金杉橋で第一京浜に突き当たり、それを左折して新橋から銀座まで走ります。
02_1044金杉橋.jpg


 街の佇まいからすると、電停にやたら「橋」がつくあたり、一の橋から金杉橋にかけての風景のような気がします。
 次のカットは同じ電車が交差点の電停で止まっている。交差する道路にも都電の線路が走っているようですが…、このあたり、4番の都電は赤羽橋で3番と、芝園橋で37/2番と、金杉橋で1番とそれぞれ交差(合流)するわけで…。いずれにせよ、このあたりの街を見下ろすビルに知り合いはいないし、潜り込んだ覚えもありません。
03_1044金杉橋.jpg


 思いついて写真を拡大してみると…電停の表記は読めそうで読めない…アレ、電車の屋根の四隅に、日の丸の小旗が立っている…ってことは撮影したのは祝日ですね…。
02_1044金杉橋up.jpg


 この旗でようやくピンときました。実はクルマで走りながら助手席から都電を撮っている一連のネガがあるのですが、そこに写っている都電が、みんな日の丸を掲出していて…。するとこの2枚はそれらの前に撮ったもの。私はこの日、クルマで移動しているから…、なぁんだ、私は平行している首都高速環状線の上から撮影しているんですね。よく見りゃあ最初の写真に首都高の橋脚が写ってるし…。
 いまの首都高速環状線の交通量を考えると、路肩や駐車帯に車を止めて撮影するなど、考えられませんが、昭和39年秋に浜崎橋JCT - 芝公園間が開通した後、残る芝公園 - 霞が関JCTが開通して都心環状線が完成するのが昭和42年夏のこと。芝公園の外回り出口も、盲腸線の終点みたいな感じで、のんびりしていたのかもしれません。
 地図と道路のカーブの具合をにらめっこして、どうやらこの交差点は金杉橋らしいこともわかりました。

 というわけで、前置きが長くなりましたが、昭和41年晩秋の休日、天気はいまいちパッとしませんが、都電を追っかけながらの都内ドライブにご案内しましょう。

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晩秋の木曽路~奈良井、鳥居峠~昭和41年 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 9月のダイヤ「正常化」以來、さっぱり地元京成の話題とご無沙汰です。「明日は京成!」なんて意気込んでいると、朝起きたら冷たい雨が降っていたり…、先日など青砥の駅で電車を待ってたら、通過していったスカイライナーAE車の様子が変わっている。よく見ると車体正面に「ブルーリボン賞受賞」のステッカーを誇らしげに掲げているじゃないですか…。そのとき私は、といえば、カメラを持っていないんですね~。どうもかみ合わせがよろしくありません。
 そんなわけで、またまた相変わらずのモノクロの昔写真を引っ張り出して、ご機嫌を伺う次第なのであります…。
001_EF131大月.jpg

 昭和41年の晩秋。大月駅。EF131に牽かれた上りの客レ。機関車の次位には春までの間、暖房車(マヌ34?)がつながれています。機関車の右側、山裾に工事中の構造物が見えていますが、中央高速でしょうか?

 下りの165系電車急行アルプス(でしょうね、たぶん)に乗った私と母は、晩秋の中央東線を長野県へ向かっています。しばし沿線のスナップを御覧ください…。

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品川駅前暮色~都電3番線に乗って~昭和42年 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 私が通っていた高校にほど近い牛込見附、昭和42年。
 向かって右手は牛込神楽坂の高台で、左手には外堀を隔てて国鉄中央線が四谷まで並行する外堀通りを、市ヶ谷方向から都電が走って来ました。
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 電車は品川駅前からやってきた3系統「飯田橋」行き。カメラの背後、200メートルほどで、飯田橋の大きな五差路(七差路?)交差点と突き当たる手前が、電車の終点になります。
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 すぐに品川駅行きとなって戻ってきた電車。左手にみえるパチンコ屋は、授業をサボって行くと、必ず物理の教師が玉を弾いていた、という伝説のジ◯イアンツ。写真には写っていませんが、左手手前には私のエスケープの定番、100円名画座の「佳作座」がありました。高校の仲間が読んだら、お前の定番はピンク映画がかかっていた「ギ◯レイホール」じゃね?(写真にちいさくうつってますね)、と突っ込まれそうだな。

 今日は気合を入れて、この3番の都電で品川に向かいます。たかが都電に乗るのに、なんで気合を入れるんだ、とお思いかもしれませんが…何しろ今日は「取材」(笑)だもんで…。

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校庭の機関車、工場の機関車 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 畏友のhigeraman氏からまたまた写真が送られてきた。
 一見して「あっ、またダマテンでタイかビルマだかに遊びに行きやがったな?」と…。
 いや、それほどに南国っぽい写真だったのですよ。
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 放置されっぱなしのような機関車。ナンバーは1285…って、どう見てもC12でしょ? ナンバープレートのCの部分は欠けてるけど…。
 生い茂った木々、メインロッドに塗られた赤…なんだか太平洋戦争中に外地に送られたC12のように見えて…でもC12ってタイとかビルマに送られてたっけ?

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セーシュンの新小岩機関区~C57編 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 総武線電車に乗って新小岩を過ぎると、左側に広がる新小岩信号場駅。今では常磐線・新金線と 総武快速線を直通する貨物列車の機関車の方向転換を行う小さな操車場となっているこの場所は、かつては新小岩操車場として、各方面から集まる貨車の組みかえや組成を行うちょっとした拠点ヤードでした。広大な敷地の中には、貨車の研修を行う国鉄新小岩工場、そして貨物列車を中心とした各列車の牽引に当たる機関車の拠点、新小岩機関区がありました。
 新小岩機関区に配属されていた機関車は、D51、C57、C58、8620の蒸気機関車群。地味ながらも都内有数のSL基地だった新小岩機関区、中学生~高校生だった私は、いくどとなくこのこじんまりとした機関区を訪問していました。
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 そんな私のセーシュン時代とオーバーラップする新小岩のその全盛期から晩年にかけて、をご紹介する第二弾、今回は都内~房総、総武線をまたにかけて活躍したC57を中心にお届けします。

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領空侵犯~都電神明町車庫昭和42年秋 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 前回、上野駅不忍口をスタートして、上野のお山を回りこむように池之端に出て、専用軌道を走る都電を撮影した私、上野動物園前の電停から、40番の神明町車庫行きに乗っていよいよ未体験ゾーンの根津、千駄木エリアへと向かいます。

 動物園前の電停を過ぎると、専用軌道は左にカーブして北西方向に進路を変え、上野動物園分園の裏側を抜けていきます。やがて突き当たるにぎやかな通りは上野公園で一度別れた不忍通り。都電の専用軌道が不忍池の東側を通るのに対し、不忍通りは西側をぐるっと回りこみ、お互い半周したところで再び合流するわけです。
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 合流地点は池之端二丁目、手元の昭和37年の都電「電車案内図」では電停名は「七軒町」となっています。ちょうどこの頃は、昭和37年に施行された住居表示制度に伴い、東京中から古い町名が消えていった時期、私の通っていた中学の最寄りの電停も、末広町が「外神田5丁目(地下鉄の駅名はそのままなのに)」、黒門町が「上野一丁目」と、何がなにやら…の漠然とした町名に「改悪」された時期に当たります。

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