品川駅前暮色~都電3番線に乗って~昭和42年 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]
私が通っていた高校にほど近い牛込見附、昭和42年。
向かって右手は牛込神楽坂の高台で、左手には外堀を隔てて国鉄中央線が四谷まで並行する外堀通りを、市ヶ谷方向から都電が走って来ました。
電車は品川駅前からやってきた3系統「飯田橋」行き。カメラの背後、200メートルほどで、飯田橋の大きな五差路(七差路?)交差点と突き当たる手前が、電車の終点になります。
すぐに品川駅行きとなって戻ってきた電車。左手にみえるパチンコ屋は、授業をサボって行くと、必ず物理の教師が玉を弾いていた、という伝説のジ◯イアンツ。写真には写っていませんが、左手手前には私のエスケープの定番、100円名画座の「佳作座」がありました。高校の仲間が読んだら、お前の定番はピンク映画がかかっていた「ギ◯レイホール」じゃね?(写真にちいさくうつってますね)、と突っ込まれそうだな。
今日は気合を入れて、この3番の都電で品川に向かいます。たかが都電に乗るのに、なんで気合を入れるんだ、とお思いかもしれませんが…何しろ今日は「取材」(笑)だもんで…。
高校時代、私は「新聞部」に所属してました。私の学校ではちょっとばかりカッコつけて「出版委員会」なんて言ってましたが…。要は文化系の部活でして、タブロイド版、4ページ(ときに2ページ)活版刷の学校新聞を年に3~4回出す、というのが主な活動でした…。部活としては暇な方で、メンバーも陸上部や演劇部と掛け持ち…なんて状態でしたが…。
昭和42年秋、私が高校2年生の時ですが…財政再建団体の指定を受けた都交通局は、都心部を網の目のように結んでいた都電を、段階的に廃止していく、ついては第一次都電撤去として、銀座通り含む8系統を廃止する、と発表します。
私が通っていた都立高校は、千代田、港、品川、大田の各区から通っていた生徒がほとんどで(その他越境組…私自身そうですが)、第一次撤去計画は港区に廃止路線が集中していたせいもあり、私は、
「我が校の生徒の通学事情に大きな影響を及ぼす都電撤去計画が決まった…ついては去りゆく都電に乗車する雑感記事」はどうか、な~んて企画をだしたところ、通っちゃったんですね…。もちろん私の思惑が、学校新聞に鉄ネタを載っけたい…という、いとも単純な動機からだったのは言うまでもありません…。
ともあれ、企画が通った手前、ここは3系統(他でも良かったんですが)に乗車し、体験記事を書く役回りが当然私に回ってきたわけです。
3系統は品川駅前を起点に、三田~金杉橋~飯倉~虎ノ門~溜池~赤坂見附~四谷見附~飯田橋を結ぶルート。電車の所轄は三田車庫で、1系統、2系統、3系統、37系統を引き受けておりました。都電の看板ルート1系統…これが銀座通りを縦断していたお陰で、第一次撤去の槍玉に上り、三田車庫全廃に繋がったという説がありますが…。
市ヶ谷見附。右に見える道が曙橋から新宿につながる靖国通り。外堀通りはこの先、カーブしつつ坂道を上り四谷見附に向かいます。すれ違うのは6000形6016号飯田橋行き。
スキャンしたネガを拡大して見ていましたら、気になる物件発見! すれ違う電車の向こうに見える「ロッテアローマチョコレート」の広告看板、写っている女性は、ひょっとして九重佑三子サマではありますまいか? 好きだったなぁ…「コメットさん」もちろん見ていましたとも! 坂本九が離れた後のパラダイスキングでのデビュー、鮮烈でございました。この頃だと、「奥さまは魔女」のジニーのアテレコをやってた中村晃子(我が地元出身)と2大オキニだったかも…ああ、なんというミーハーなセーシュン。
閑話休題。
四谷見附を過ぎて、迎賓館前に差し掛かると、電車は外堀通りと高速道路に挟まれた狭い空間を単線で走り抜けます。
坂を下って弁慶堀の脇をかすめると、繁華な赤坂見附、山王下を走りすぎ、溜池で首都高速の下をくぐりぬけます。
当時は「日本一」の霞が関ビルの脇を通りぬけ…このあたりのカットは別の日に撮影したものですが…。
虎ノ門交差点を右折…とやっているときりがないんで…ともかく電車は終点の品川駅前に到着しました。晩秋の日暮れは早く、あたりはすっかり暮色に包まれて…まぁ、学校の授業をちゃんと受けてからの試乗なので仕方ないですね…。
電車の左側、駅舎の途切れる辺りは、いまは再開発で飲み屋が多数入ったビルになっていますが、当時はまだ焼跡闇市的たたずまいの平屋の飲み屋街が広がっていました。そこの寿司屋の娘さんが高校の同級生で…ってまたまた話が脱線しかけてますね。
鉄的には、やっぱり京急品川駅のこの堂々たるネオンサイン。久里浜-金谷のフェリーを足場に、京急が堂々、南房総までそのエリアとして謳いあげていた時代。
乗車してきた2017号は、再び「飯田橋」行きとなり折り返していきます。京急電車とのコラボ、滅多に使われない山側のホームから出発していくのは700系でしょうか?
品川駅前を発着するのは、1,3系統のほか、広尾、青山一丁目を経て四谷三丁目を結ぶ7系統もありました。こちらは広尾車庫の担当。7系統の8000形と入れ替わりに入ってきたのは「上野」行きの方向幕を出した1系統の5500形5501号。言わずと知れた都電PCCカーの元祖です。
ここで会ったが百年目、じゃないけれど、5501号に乗ったことはまだない…というわけで、「取材」の本筋とは関係有りませんが、「無音電車」の乗り心地を試しに乗車したようです。
外は真っ暗、相当無理筋ではありますが、5500形の運転席を…。コントローラが他の形式に比べ、かなり小ぶりなのが目につきます。
そんな5500形に乗って…次のカットは…ありゃ、電車の上のガードは…どうやら新橋、銀座を抜けて、秋葉原駅前まで乗り通してしまったようです。
なぜか、後ろ側の方向幕は「三田」行きを掲出。5501号は他の量産型5500形と比べると、系統板が行灯式でなく、他に類例のない菱形鉄板(1系統以外には運用されなかった)だったり、集電装置がビューゲルだったり、車体全周にスカートが巻かれていたり…とかく特異な都電車両でありました。
上野方面へ走り去る「三田行き」5501号を見送って、本日の「取材」は終了。取材のための電車賃15円×2=30円は自腹だっ(笑)。総武線電車で帰途についた…んだと思います。
余談ですが、このときの「取材記事」は文章の方は比較的すんなり通ったんですが、写真が怖い先輩からダメ出しを喰らいまして…ご覧のとおり曇天、夕景、夜景のパッとしな写真だったので…結局それまでに撮っていた手持ちの写真から採用されたのは、以前当ブログに掲載したゾロ目1111号の写真↓。
なんで「3系統」の記事に「40系統」が出てくるんだ、と突っ込みたいところですが、ソコは「泣く子と先輩に勝てない」のは文化系の部活でも同様…。そんな私怨(オイオイ)の籠った写真を40数年振りに陽の目を見させてやることができました(笑)。
向かって右手は牛込神楽坂の高台で、左手には外堀を隔てて国鉄中央線が四谷まで並行する外堀通りを、市ヶ谷方向から都電が走って来ました。
電車は品川駅前からやってきた3系統「飯田橋」行き。カメラの背後、200メートルほどで、飯田橋の大きな五差路(七差路?)交差点と突き当たる手前が、電車の終点になります。
すぐに品川駅行きとなって戻ってきた電車。左手にみえるパチンコ屋は、授業をサボって行くと、必ず物理の教師が玉を弾いていた、という伝説のジ◯イアンツ。写真には写っていませんが、左手手前には私のエスケープの定番、100円名画座の「佳作座」がありました。高校の仲間が読んだら、お前の定番はピンク映画がかかっていた「ギ◯レイホール」じゃね?(写真にちいさくうつってますね)、と突っ込まれそうだな。
今日は気合を入れて、この3番の都電で品川に向かいます。たかが都電に乗るのに、なんで気合を入れるんだ、とお思いかもしれませんが…何しろ今日は「取材」(笑)だもんで…。
高校時代、私は「新聞部」に所属してました。私の学校ではちょっとばかりカッコつけて「出版委員会」なんて言ってましたが…。要は文化系の部活でして、タブロイド版、4ページ(ときに2ページ)活版刷の学校新聞を年に3~4回出す、というのが主な活動でした…。部活としては暇な方で、メンバーも陸上部や演劇部と掛け持ち…なんて状態でしたが…。
昭和42年秋、私が高校2年生の時ですが…財政再建団体の指定を受けた都交通局は、都心部を網の目のように結んでいた都電を、段階的に廃止していく、ついては第一次都電撤去として、銀座通り含む8系統を廃止する、と発表します。
私が通っていた都立高校は、千代田、港、品川、大田の各区から通っていた生徒がほとんどで(その他越境組…私自身そうですが)、第一次撤去計画は港区に廃止路線が集中していたせいもあり、私は、
「我が校の生徒の通学事情に大きな影響を及ぼす都電撤去計画が決まった…ついては去りゆく都電に乗車する雑感記事」はどうか、な~んて企画をだしたところ、通っちゃったんですね…。もちろん私の思惑が、学校新聞に鉄ネタを載っけたい…という、いとも単純な動機からだったのは言うまでもありません…。
ともあれ、企画が通った手前、ここは3系統(他でも良かったんですが)に乗車し、体験記事を書く役回りが当然私に回ってきたわけです。
3系統は品川駅前を起点に、三田~金杉橋~飯倉~虎ノ門~溜池~赤坂見附~四谷見附~飯田橋を結ぶルート。電車の所轄は三田車庫で、1系統、2系統、3系統、37系統を引き受けておりました。都電の看板ルート1系統…これが銀座通りを縦断していたお陰で、第一次撤去の槍玉に上り、三田車庫全廃に繋がったという説がありますが…。
市ヶ谷見附。右に見える道が曙橋から新宿につながる靖国通り。外堀通りはこの先、カーブしつつ坂道を上り四谷見附に向かいます。すれ違うのは6000形6016号飯田橋行き。
スキャンしたネガを拡大して見ていましたら、気になる物件発見! すれ違う電車の向こうに見える「ロッテアローマチョコレート」の広告看板、写っている女性は、ひょっとして九重佑三子サマではありますまいか? 好きだったなぁ…「コメットさん」もちろん見ていましたとも! 坂本九が離れた後のパラダイスキングでのデビュー、鮮烈でございました。この頃だと、「奥さまは魔女」のジニーのアテレコをやってた中村晃子(我が地元出身)と2大オキニだったかも…ああ、なんというミーハーなセーシュン。
閑話休題。
四谷見附を過ぎて、迎賓館前に差し掛かると、電車は外堀通りと高速道路に挟まれた狭い空間を単線で走り抜けます。
坂を下って弁慶堀の脇をかすめると、繁華な赤坂見附、山王下を走りすぎ、溜池で首都高速の下をくぐりぬけます。
当時は「日本一」の霞が関ビルの脇を通りぬけ…このあたりのカットは別の日に撮影したものですが…。
虎ノ門交差点を右折…とやっているときりがないんで…ともかく電車は終点の品川駅前に到着しました。晩秋の日暮れは早く、あたりはすっかり暮色に包まれて…まぁ、学校の授業をちゃんと受けてからの試乗なので仕方ないですね…。
電車の左側、駅舎の途切れる辺りは、いまは再開発で飲み屋が多数入ったビルになっていますが、当時はまだ焼跡闇市的たたずまいの平屋の飲み屋街が広がっていました。そこの寿司屋の娘さんが高校の同級生で…ってまたまた話が脱線しかけてますね。
鉄的には、やっぱり京急品川駅のこの堂々たるネオンサイン。久里浜-金谷のフェリーを足場に、京急が堂々、南房総までそのエリアとして謳いあげていた時代。
乗車してきた2017号は、再び「飯田橋」行きとなり折り返していきます。京急電車とのコラボ、滅多に使われない山側のホームから出発していくのは700系でしょうか?
品川駅前を発着するのは、1,3系統のほか、広尾、青山一丁目を経て四谷三丁目を結ぶ7系統もありました。こちらは広尾車庫の担当。7系統の8000形と入れ替わりに入ってきたのは「上野」行きの方向幕を出した1系統の5500形5501号。言わずと知れた都電PCCカーの元祖です。
ここで会ったが百年目、じゃないけれど、5501号に乗ったことはまだない…というわけで、「取材」の本筋とは関係有りませんが、「無音電車」の乗り心地を試しに乗車したようです。
外は真っ暗、相当無理筋ではありますが、5500形の運転席を…。コントローラが他の形式に比べ、かなり小ぶりなのが目につきます。
そんな5500形に乗って…次のカットは…ありゃ、電車の上のガードは…どうやら新橋、銀座を抜けて、秋葉原駅前まで乗り通してしまったようです。
なぜか、後ろ側の方向幕は「三田」行きを掲出。5501号は他の量産型5500形と比べると、系統板が行灯式でなく、他に類例のない菱形鉄板(1系統以外には運用されなかった)だったり、集電装置がビューゲルだったり、車体全周にスカートが巻かれていたり…とかく特異な都電車両でありました。
上野方面へ走り去る「三田行き」5501号を見送って、本日の「取材」は終了。取材のための電車賃15円×2=30円は自腹だっ(笑)。総武線電車で帰途についた…んだと思います。
余談ですが、このときの「取材記事」は文章の方は比較的すんなり通ったんですが、写真が怖い先輩からダメ出しを喰らいまして…ご覧のとおり曇天、夕景、夜景のパッとしな写真だったので…結局それまでに撮っていた手持ちの写真から採用されたのは、以前当ブログに掲載したゾロ目1111号の写真↓。
なんで「3系統」の記事に「40系統」が出てくるんだ、と突っ込みたいところですが、ソコは「泣く子と先輩に勝てない」のは文化系の部活でも同様…。そんな私怨(オイオイ)の籠った写真を40数年振りに陽の目を見させてやることができました(笑)。
この頃私はまだ中学生飯田橋あたりまでは足を延ばしていましたが、
今回の都電はほとんど未知の世界でした。品川までは池袋〜品川間の
トロリーバスで行ったことがあります。でも、あの頃は写真を撮って
いないのです・・・・
by ひもブレーキ (2011-11-08 00:15)
おお~!!なつかしの外堀線だあ。
って、通して乗ったのは一回きりですが、そのときは700形という粋なスタイルの小形車が3番専用で走っていました。赤坂見附~四谷間が単線に切り替えられた直後のことで、父と一緒に行ったので私は小学生だったのかな?確か写真撮ったはずなのに見つからないです~
飯田橋の終点風景は懐かしいですね。「ジャイアンツ」もよく行ったし、喫茶点なら「軽い心」・・・貧乏映画少年は「佳作座」にはよく行きました。ピンクやっていたのは「ギ○ンレイホール」じゃあなくて、その裏側の路地にあった「く○ら」じゃないですか?
夜の品川も懐かしいし、にじんだ光がいい感じですねえ。オマケに5501にに加えて、わがホームグランド40番の1111まで!至れり尽くせりの豪華キャストですね。
by Cedar (2011-11-08 18:20)
ひもブレーキさん
そうなんです。このときはまだ品川駅前に102番のトロバスが来ていたはずなんですが、全然写真を撮っていないんです。「無軌条電車」って言葉は知っていたはずなんですが、やっぱり「バス」だと思っていたのかなぁ…。
Cedarさん
さすがよくご存知! ギ○ンレイホールはB級な洋画…あれ、邦画だったかしら? マカロニウエスタンを見た気もするし、大島渚を見たような気もする…私がたま~に(!)潜り込んでいたのはく○らですね。でもいちばん記憶にあるのはやっぱり佳作座です。ひょっとしたらあの頃、お会いしているかもしれませんね(笑)。700形は大好きな電車でした。2000形が杉並線から転属になって置き換えられてしまったんでしたね。
by maipenrai (2011-11-08 19:21)
3や8に6000が入ってるのを見ると、違和感を感じてしまいます。
輸送量なら同じぐらいの7や33にも7000や8000が入ってはおりますが、現在の都バス品97系統の有様をみますと・・・。
by なにわ (2011-11-08 20:23)
このあたりは、都電時代を知らないですねぇ。
今回の記事で反応出来そうなのは中村晃子かな(笑)。
by 伊 謄 (2011-11-08 21:13)
なにわさん
弊ブログでははじめまして、ですね。いつもCedarさんところで、スルドイ論考は拝見しております。
「3」なら700形、「8」なら1200形が定番でしたね。どちらも最後は2000形が進出してきましたが…。「3」は幹線の「1」と同じ三田車庫、「8」「7」「33」は大型車オンリーだった「34」と同じ広尾車庫…ですか。いまさらですが、運用効率から受け持ちの車庫と路線を考えなおしてみるのも面白いですね。
余談ですが、「3」系統のサヨナラ装飾電車は8000形でした。あんまり「3」で8000を見たことがなかったので、違和感を感じたことを覚えてます。行灯の系統板がなくて、鉄製の系統板を無理矢理差し込んでいました。
伊 謄さん
中村晃子は長嶋以來絶えてなかった千葉県出身のスーパースター…なわけないですね。確か習志野の袖ヶ浦の出身ではなかったかと…。
by maipenrai (2011-11-08 21:43)
懐かしい。子どものときもちろん小学校の低学年だと思うけど都電の3番は赤坂見附から四谷に向かって坂を上るところで路面電車ではなく専用の道(なんていうのか分らない、車は走らない)でそこで都電の線路に釘を乗せて踏ませて平らにしていた。(犯罪です、良い子はやらないで)踏ませた釘の使い道はともかく今思うとずいぶんばかなことをしていたなぁ。
by TAC (2011-11-09 06:42)
TACさん
私にも身に覚えがあります。しかも愛する京◯電車で…。この歳になっても思い出すと胸がチクチク痛むのです。
よしくんさん
gardenwalkerさん
niceありがとうございます
by maipenrai (2011-11-09 19:50)
こんばんは
改めて拝見して思ったことは
電車のデザインって車に比べるとあまり変わらないですね
耐用年数が長いのもあるかと思いますが
車のデザインは本当に時代を映し出しますね~
by gardenwalker (2011-11-09 22:00)
gardenwalkerさん
どうも私自身偏狭なせいか、いまの電車のデザインでもけっこう「ついていけない感」って持ってます。音楽の好みは70年で止まってるし、クルマのデザインもセダンやクーペ、せいぜいハッチバックまでが(自分で乗る、って意味ですけど)許容範囲だったりします。丸いのとか四角いとかは、時代の空気だからどーでもいいんですが…。こういう感性って、普通はハタチ前後あたりまでに形成されるようで、案外しぶといのです。そうかといってそんな爺の感性に合わせていては、時代としてのイノベーションもなにもないわけで…。
すいません、ちょっと酒が入ってとりとめがなくなりました。
by maipenrai (2011-11-09 22:25)
3系統といえば、700形で、昭和27年辺りから御馴染みになっていました・・・が撮ってないんです。とほほ・・・です。当時の赤坂見附の地下鉄駅前辺りは用途不明の線路が一本あって、三本線路が並んでいました。
背の低い建物の並んだ飯田橋~市ヶ谷のお堀端はのどかで好きな眺めでした。お堀にはボート、釣りをするオジサンに少年。
若葉町~赤坂見附のお堀も良い眺めでした。専用軌道も高速道路とともに「仮」単線となり、消えてゆきました。
5501、撮っておいでなんですね!羨ましい!
by む〜さん (2011-11-11 08:49)
む〜さん
私より一回りちょっと年配であられる む〜さん。おそらくこの当時は社会人の中堅としてご多忙な日々を送られていたと思います。暇だけはあった高校生の私、たまたま運良く、5501に出っ食わしましたが、一度品川を出てしまうと、2時間は戻って来なかった1系統。なかなか狙って撮れるような車両ではありませんでしたね。
赤坂見附の「3線区間?」、なんだったんでしょう? とっても興味を惹かれます。
燕っ子さん
遠征お疲れ様でした。niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-11-11 21:03)
先週、雨の広島に泣いた私に・・・追い打ちするごとく・・・
曽根風呂・鉄ブロガーは、しめしあわせてぇ・・・いるのでしょうか?
どうして皆さん揃って、路面電車なんですかぁ?季節?
by hanamura (2011-11-12 12:55)
hanamuraさん
不順な天候が続いてましたからねぇ。
>どうして皆さん揃って、路面電車なんですかぁ?季節?
私の場合は昭和42年12月に都電の第一次廃止があり、その直前にあわててあちこちで写真を撮ったので、この季節の写真が多いんです(笑)。いまでいう葬式鉄!?
by maipenrai (2011-11-12 18:34)
あおたけさん
ねじまき鳥さん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-11-13 17:39)
京急の品川駅ビルが、現在とほぼ変わらないのに驚きました。
by ドラもん (2011-11-14 20:40)
映画三丁目の夕日に出てくる都電は3番で6152となっていました。
by TAC (2011-11-18 16:46)
ドラもんさん
コメントいただいたことに気づかず失礼しました。
確かに高層ビルに建て替えるには敷地が狭い…ってこともあるんでしょうが、昔と同じ佇まいで今も残っているのは嬉しいですね。
TACさん
6052号といえば、一度廃車の後復活して、グリーンとクリームに塗られて「一球さん」として親しまれた「スター」ですね。末期の3系統に6000形はかなり入っておりましたが、6052号はその頃三田車庫にいたんでしょうか?
by maipenrai (2011-11-18 20:30)
上記URLの管理人です。初めまして。
このページのトップの写真を見て感動してしまいました。
ぜひとも我々のホームページにも使わせてほしいのですが,いかがでしょうか?
よろしくご検討ください!
by 海たろう (2012-09-06 14:23)
海たろうさん
はじめまして。拙い写真でお恥ずかしい限りですが、よろしければお使い下さい。画像の上で右クリック→名前をつけてリンク先を保存、で900×600ピクセルの画像がダウンロードできます。
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-04-09
にもちょこっとですが、お堀端の写真を掲載してあります。
by maipenrai (2012-09-06 16:56)
お世話になります。
TBSテレビ「噂の!東京マガジン」を制作しております
松井と申します。
この度は、京浜急行品川駅の写真を「東京の街角 品川の今昔」というコーナーにてご使用させていただきたくご連絡差し上げました。
つきましては、一度下記のメールアドレスにてご相談させて頂きたいです。
突然のご相談で大変恐れ入りますが
ご理解ご協力のほどよろしくお願いいたします。
TBSテレビ
情報制作局 情報三部
「噂の!東京マガジン」
担当:松井雅伺
mail: mat.masash@gmail.com
by TBSテレビ「噂の!東京マガジン (2017-07-03 14:25)
はじめまして。「てくてく牛込神楽坂」 http://kagurazaka.yamamogura.com/ というブログをやっているものです。神楽坂に関するものを集めています。最初の2枚を「てくてく牛込神楽坂」でも使っていいいでしょうか。お願いします。
by ヤマモグラ (2022-09-16 06:13)
初めてお便りします
数々の写真、懐かしく、素敵でした
山王下を過ぎたあたりのお写真ですが、ドキュメンタリーの映像制作をしておりまして、使用させていただくことは可能でしょうか
テレビではないのですが、とある企業の会長さんが以前この辺りでお勤めしていたようでして、お話をされていました
もし差し支えなければご連絡お待ちしております。
by 小倉伸一 (2022-11-05 14:11)