セーシュンの新小岩機関区~C57編 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 総武線電車に乗って新小岩を過ぎると、左側に広がる新小岩信号場駅。今では常磐線・新金線と 総武快速線を直通する貨物列車の機関車の方向転換を行う小さな操車場となっているこの場所は、かつては新小岩操車場として、各方面から集まる貨車の組みかえや組成を行うちょっとした拠点ヤードでした。広大な敷地の中には、貨車の研修を行う国鉄新小岩工場、そして貨物列車を中心とした各列車の牽引に当たる機関車の拠点、新小岩機関区がありました。
 新小岩機関区に配属されていた機関車は、D51、C57、C58、8620の蒸気機関車群。地味ながらも都内有数のSL基地だった新小岩機関区、中学生~高校生だった私は、いくどとなくこのこじんまりとした機関区を訪問していました。
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 そんな私のセーシュン時代とオーバーラップする新小岩のその全盛期から晩年にかけて、をご紹介する第二弾、今回は都内~房総、総武線をまたにかけて活躍したC57を中心にお届けします。


 房総、千葉の蒸気機関車といえばハチロクにC58、戦後長らくはそんな時代が続いていたようなのですが、その要となる千葉機関区(現在の千葉駅あたりにあって、1960年、旧千葉駅の移設に伴い閉鎖された)に所属する機関車は新小岩と佐倉に分散配置となります。そのとき、千葉機関区には5両のC57が配置されていました。5両のC57は新小岩機関区に転属となり、60年代を通じて活躍を続けることになります。その5両とは
C57125
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C57129
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C57160
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C57161 この写真は千葉駅で撮ったものです。
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C57164
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 いずれもその機関車歴を、新小岩で終えることになった「新小岩のC57プロパー」たちです。私が彼(彼女か?)らと出会った時には、すでに前照灯はシールドビーム一灯に換装されていたり、回転式火の粉止め(クルクルパー)が装着されているのが常態であったりと、スタイルマニア的にはあんまり感心できる姿ではありませんでしたが、中学生の私にはD51、C58=貨物専用、地味。ハチロク=入換機、地味。な新小岩区所属機の中で、これまた地味とはいえ都心に近い両国駅から、客車列車を引っ張って館山や勝浦に向かうライトパシフィックC57は、特別な存在に見えたものです。

 当時両国駅まで乗り入れていた蒸機牽引の客車列車は、勝浦発222レ、館山発124レ、そして銚子発の326レ。勝浦発がラッシュ前の7時以前に両国に到着するほかは、館山発、超始発ともラッシュが終わった9時、10時台に両国着のダイヤが設定されていました。下りは館山行きが125レ、勝浦行きが221レ、銚子行き331レとなり、いずれも17時台に相次いで両国を発車していくダイヤでした。このうち銚子スジは佐倉区のC58の牽引でしたが、館山、勝浦発着列車を受け持つのは新小岩機関区のC57。

 …と書いていくと、お気づきでしょうが、夕方東京を発って千葉のはずれまで行き、また朝早い列車を牽いて東京に戻る(房総西線はもうちょっと複雑な運用でしたが)、ということは、昼間は基本的にヒルネを決め込む、というのが新小岩機関区のC57の常態でした。

 朝の光を浴びて、逆行単機のC57129が新小岩操車場に戻ってきました。朝の222レで両国着、客車を錦糸町客貨車区まで連れていき、身軽な単機で新小岩に戻ってきた機関車でしょうか?
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 給水、給炭を済ませて…(機関車はC57164)。
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 方向転換を済ませると…
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 操車掛りに導かれて…、
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 機関区の検修線へ。しばしの休憩タイムです。
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 機関車の休憩タイム=鉄小僧の撮影タイムというわけで…
 新金線の電化で新小岩に乗り入れるように生っていたEF80との並びを撮ったり、
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 検修ピットに潜り込んでこんなアングルで撮ったり…
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 キャブによじ登ったり…と、好き放題に撮影させて頂きました。
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 新小岩機関区のC57は、千葉区から移籍した5両だけではなく、1963年からC57の配置が始まり、67年には電化が進む日本海縦貫線筋などからの移籍機を迎え入れ、C57の配置数11両を数えるようになった佐倉機関区からの借入や融通も盛んに行われていました。

C5755は63年に水戸から佐倉機関区最初のC57として転属してから、佐倉機関区からSLが消える69年まで活躍し続けた機関車ですが、「岩」の区名札をつけていた軌間もけっこう長かったように思います。
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 ふだんは5両で十分まかなえる新小岩機関区のC57運用も、房総の夏臨を運行する夏期には、他区からの応援を仰がなければなりません。その常連だったのが平機関区所属のC5720。
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 7月下旬の房総夏臨ピークに新小岩で使い、8月半ばのお盆輸送には平に戻って臨客の牽引に当たる、なんて姿を見た年もありました。昭和42年10月1日の、常磐線平-岩沼電化直前まで、平機関区にあって、僚機の予備機として火をいれた状態で待機、電化によって僚友のハドソンC62/61などと運命を共にした機関車です。シールドビームの補助灯がいかにも「みちのくのカマ」らしいですね。
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 日が西に傾いて来ました。15時台に逆行単機で都心に向かっていくC5733。単機で上っていくのは錦糸町の客車区から、客車を引き出し両国まで連れて行く担当。
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 16時半近く、新小岩操車場に現れた「両頭機関車」。C57は勝浦行きを、次位のC58は銚子行きの牽引機となる機関車の回送です。両国には転車台があるとはいえ、わざわざ手間かけて正向きを前に持ってきたのは、ダイヤが輻輳する国電区間での速度制限を少しでも上げるためでしょうか?
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 新小岩駅の平井寄りで。101系電車と離合する館山行き125レを牽引するC57164。17時半近く、両国を発つこの列車、夏場ならなんとか撮影できるのですが冬場では露出が厳しかったですね。
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 新小岩機関区のC57は、ご紹介した他に消滅間際に59号、71号、105号などの配置があったようです。いずれもそれ以前には佐倉区に所属していて、おそらく検査期間の都合で先行廃車になったカマの代換えに転属してきたものでしょう。

 1969年8月20日、両国駅を出発した最後の蒸機牽引列車はC57105(岩)の牽く221レ勝浦行き。同年9月30日には、千葉-銚子間の325レを、C5771(岩)が牽引して総武本線のSL牽引列車の有終の美を飾ったそうです。

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伊 謄

 こんにちは。
 わたしが新小岩に行った1968年に会っていたのは160でした。
 また、走行中を撮っていたのは夕方の下りを牽く164で、亀戸で写していました。
by 伊 謄 (2011-10-30 01:19) 

manamana

小学生低学年の頃は、
まだ蒸気機関車が東京でばりばり活躍していたとは。
それも101系の西の終点の近くに住んでいたのに。
時代がラップしているだけに、
蒸気機関車とは無縁だったことが、悔まれます。
by manamana (2011-10-30 07:23) 

maipenrai

伊 謄さん
 160は68年で、164は69年で消えていますね。68年春の成田電化からはじまり、同年夏の木更津電化、69年夏には千倉電化が完成し、同時期に佐倉区に大量のDE10が配属され、房総のSLの命運が定まった頃でした。

manamanaさん
 小学校低学年の頃は、どうしても煤けた蒸気機関車よりは、ピカピカの新しい電車に興味を惹かれますよね。私も自分より少し年配の方のお写真を拝見すると、なんでもうちょっと早く覚醒していなかったのか、と後悔することしきりです。あ、同時代でも「電車音痴」コンプレックスは、いまだに尾を引いているかも…。

よしくんさん
ほりけんさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-10-30 14:17) 

む〜さん

千葉エリアのC57のアルバム、懐かしい気持ちで拝見しました。
私の住んでいた東京大田区では、蒸気機関車はD51、D52、C58、C50、8620、2120で、C57はなかなかお目にかかれませんでした。上野、両国に行けば会えるのですが、少年む~さんは、そんな機会も少なかったのです。
昭和30年代中頃になって常磐線とか、千葉方面によく行くようになって、C57との付き合いも出来る様になりました。
by む〜さん (2011-10-30 20:42) 

maipenrai

む〜さん
 品鶴線や山手貨物線のD52や、DD13が入る前の2120の時代の私は洟垂れのガキで、そんな機関車が走っていた時代は憧れでした。
 C57はのちに「貴婦人」なんてニックネームを付けられて…、それはそれで違和感はないんですが、千葉エリアのそれは、貴婦人というにはかなり泥臭い運用をこなしていたような気がしますね。

あんぱんち~さん
フジトモさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-10-30 21:22) 

Cedar

こうしてみるとSLとその他の動力車(EL/DL/EC/DC)って、同じ線路を走っていたのが不思議なくらい別物ですね。アナログとデジタルの違いっていうか・・・SLの運転って動物を乗りこなすカウボーイの技、って気がします。
当時は総武線・常磐線・東北線でSLが電車区間に乗り入れていました。運転にさぞかし気を遣ったのでしょうね。


by Cedar (2011-10-30 22:13) 

gardenwalker

こんばんは
今回写真を拝見しながら思ったことは
私が生れる数年前の景色とは思えない
風景が広がっていたことと
今の葛飾とは思えないような長閑な
風景の広がりに驚きました!
by gardenwalker (2011-10-30 23:18) 

京葉帝都

C57の千葉での働きぶりが伝わってきました。写真なのに、煙や蒸気からいかにも動いているように見えてしまいます。新小岩工場の三角屋根はいつも総武線の車窓から見えていました。数年前に千葉みなと〜木更津をC57が走った情景はかつての館山方面の客車列車の再現のように映った人は沿線の人でも僅かでしょう。

by 京葉帝都 (2011-10-31 01:34) 

maipenrai

Cedarさん
 なにしろ走行のためのエネルギーは機関車が自製、その燃料は人間がスコップでくべて、火室の燃焼具合を確かめ、温水を作り…運転操作の他に、こんな作業が必要な乗り物はちょっとありませんね。今日、久々に総武線の209系で「かぶりつき」をしてしまいましたが、ちっぽけなワンハンドルマスコンを前後するだけの運転士さん、退屈そうに見えたなぁ。

gardenwalkerさん
 新小岩駅の小岩より北側、おそらく今の「マルエツ」のあるあたりが機関区でした。田んぼや湿地が随所にあって、昔の葛飾は長閑でしたよ。

京葉帝都さん
 近年、C57が内房線を走ったことは知りませんでした。今はSLやまぐち号を牽いているC571号機も一時千葉機関区に配置されていたそうですから、千葉とC57の縁は案外深いものがあるんですね。
by maipenrai (2011-10-31 16:46) 

あおたけ

C57が集う新小岩。
主役のC57はもちろんのこと、EF80や立派な転車台の姿も
興味深いところです。
機関車の休憩タイム=鉄小僧の撮影タイムとは、
今では考えられない羨ましい時間ですね。。。

私事ながら、ラストカットに写っている101系に
先日久しぶりに乗車してきました。
by あおたけ (2011-11-01 09:14) 

maipenrai

あおたけさん
 総武線筋のC57は、いつも太陽を背負って走っていて(?)、走行写真はあんまり撮っておらず、機関区での写真ばっかり…、昼間はのんびりとした空気でした。秩鉄の記事、拝見させていただきました。俄然101系に会いに行きたくなりましたが、これからの紅葉の季節、混むんだろうなぁ…。
by maipenrai (2011-11-01 19:34) 

maipenrai

シュウチャンさん
 niceありがとうございます。
燕っ子さん
 盛り返して行きましょう!
by maipenrai (2011-11-02 22:15) 

maipenrai

素人写真さん
きゅんぱちさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-11-05 21:56) 

マーボー

懐かしい写真と映像 涙が止まりません 当時駅から千葉方面に少しのところに木の陸橋があり、よく機関車を見に連れて行ってもらいました 今はもうそのおじちゃんたちもいなくなり 周りの景色も大分変りましたね 人も社会も優しい時でした。
by マーボー (2017-05-15 18:12) 

吉野聡

そもそも蒸機に関心を持ったは、千葉のSLが初めてでした。
それまでは電車が好きな鉄道少年でしたが、遊んでいた津田沼の電車区で国鉄のおじさんから「佐倉機関は行ったことはあるか、あすこには機関車がいっぱいいるぞ」と言わ小学校の卒業式の日に始め佐倉に行きました。自宅のあった検見川から千葉でのりかえて一時間くらいでした。あの時は本当にカルチャーショックをうけました。その日をさかいに俗に言う「撮り鉄のてっちゃん」になりました。撮影は日曜に限られましたが。父の転勤に伴い水戸、大宮、船橋と転居しましたが、それを利用して関東各地のSLを記録しました。
検見川で住でいたのは、新検見川駅の南側に数百メートルの距離
で中学校は駅の北側でなので、三往復ある往復の蒸機の客レは毎日当たり前のようにみてました。房総方面の二往復が新小岩区の
C57で、総武(銚子)方面は佐倉区のC58が担当だったのです
ね。
貨物列車はD51で、千葉以西の各駅に貨物を運ぶローカル貨物列車はC58でした。

総武線はとにかく懐かしいです。
いまは栃木県にいますが、撮り鉄は「北斗星、カシオペア」と復活SL(真岡線のC12、磐越西線のC57とD51)が主でした。
東武線のC11は撮影無しで乗りにいきました。

by 吉野聡 (2019-04-07 13:26) 

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