晩秋の木曽路~奈良井、鳥居峠~昭和41年 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]
9月のダイヤ「正常化」以來、さっぱり地元京成の話題とご無沙汰です。「明日は京成!」なんて意気込んでいると、朝起きたら冷たい雨が降っていたり…、先日など青砥の駅で電車を待ってたら、通過していったスカイライナーAE車の様子が変わっている。よく見ると車体正面に「ブルーリボン賞受賞」のステッカーを誇らしげに掲げているじゃないですか…。そのとき私は、といえば、カメラを持っていないんですね~。どうもかみ合わせがよろしくありません。
そんなわけで、またまた相変わらずのモノクロの昔写真を引っ張り出して、ご機嫌を伺う次第なのであります…。
昭和41年の晩秋。大月駅。EF131に牽かれた上りの客レ。機関車の次位には春までの間、暖房車(マヌ34?)がつながれています。機関車の右側、山裾に工事中の構造物が見えていますが、中央高速でしょうか?
下りの165系電車急行アルプス(でしょうね、たぶん)に乗った私と母は、晩秋の中央東線を長野県へ向かっています。しばし沿線のスナップを御覧ください…。
上りの元祖山スカ71系とすれ違い。駅の看板が旅館ばっかりなので、石和(温泉)駅? クハ76の前面窓はまだ木製で、窓の内側に「新宿行き」の方向札をぶらさげています。
甲府駅。今度はEF1311牽引の上り客レ。暖房車から盛大に煙が上がっていますね。曇りがちでいまにも雨が降りそうな天気。外はきっと寒いんでしょう。
ED61の重連は上りの貨物列車でしょう。機関車の向こう側におそらく新製配置されたばかりの「新」山スカ・115系が見えます。44年前と同じ線区を今も走り続けているんだから…凄いですねぇ…。
電車は甲府駅を出発。韮崎方の留置線に、塩山-甲府-韮崎のチョン行運用に入っている、身延線のクモハ14+クハ47が止まっていました。17メートル低屋根のクモハ14が20メートル車のクハ47をひっぱる姿は「子供がオトナを引っ張るよう…」なんて言われてましたね。
同じ編成をクハ47側から。電車の左側に、やはり新製間もないEF64が顔をのぞかせています。
甲府から先の中央線が電化されたのは、上諏訪までが昭和39年(1964年)の8月、松本までがこの年、昭和40年の5月、とのこと(上諏訪-辰野は昭和37年に電化済)。電車特急「あずさ」が走りだすのは、翌年、昭和41年10月改正からです。
上りの急行「アルプス」と行き違う。広い駅構内、小淵沢あたりでしょうか?
上諏訪では飯田線から乗り入れの電車と遭遇。このご面相はクハユニ56?
この頃はまだ岡谷と塩尻を直接結ぶみどり湖経由の路線は開通しておらず、辰野から善知鳥峠を越えるルートを経由して、電車は父の待つ塩尻に到着しました。
先に「母と二人で旅行」と書きましたが、私の父はこの頃、クルマでのドライブと8mm映画に凝っておりました。信州がずいぶん気に入っていたようで、休みの日など、朝早くから出かけ、夜遅くに帰っては「今日は700キロ走った」なんてごきげんで話しておりましたが…この時は、私と母をお気に入りの「木曽路の宿」に連れていこうと思い立ったようです。例によって父は朝早く家を出て、ドライブ&撮影。仕事と学校がある私と母は、午後の急行で新宿を出て、塩尻の駅で父と待ち合わせ。どうにか無事に合流して、父の運転するクルマで暮れなずむ国道19号を、中央西線に沿って南下。向かった目的地は、塩尻から20キロほどの「奈良井」。
旧中仙道の宿場町の面影が残る「奈良井」は、いまではけっこうな観光地として訪れる人も多いようです。そこは44年前も変わらないのですが、中山道の宿場町としては、島崎藤村の「夜明け前」に出てくる「馬籠宿」あたりに比べると、知名度では一歩譲っていたように思います。
そんな奈良井宿の街並みの真ん中辺りにあったのが、創業寛政年間と言われる旅籠をそのまま残す「ゑちごや旅館」さん。
「旅籠行燈」古の旅人は、これを目印に一夜の宿を求めたのでしょう。
手前の「ゑちごや」さんと、昭和41年の奈良井の街並み。
「ゑちごや旅館」さんは今も変わらず営業を続けていらっしゃって、ホームページもありました。44年前に比べると、通りに面したガラス窓は格子戸にしつらえ直され、ブラッシュアップしていますね。
http://naraijyuku-echigoya.jp/
近くの大宝寺というお寺には、キリシタン禁制の頃、マリア像を「子育て地蔵」と隠し奉っていたけれど、露見し首が落とされてしまったという言い伝えのある「子育てマリア地蔵」が安置されていました。
そのお地蔵様の前の父と母。思いっきり顔を出しちゃってますが、父は他界して15年を超え、母もいまでは90歳…、まっ、いいか。
そんな具合にシブい奈良井の宿。中学生の私も、歴史のお勉強に精を出し…んな訳はないですね。もちろん私が父母に同行したのは別の目的があったわけで…。
「ゑちごや旅館」さんは、表通りに面した間口は、それほど広いわけではないのですが、中に入るとウナギの寝床よろしく、いくつもの部屋が連なる長大な建物。その裏側に出ると、こんな光景が…。
狭い砂利道を挟んですぐに中央西線の線路が走っていました。
名古屋方面へ向かう上りの貨物列車が、サミットの鳥居峠をめざして驀進していきます。
似たようなカットですが、この写真、「ゑちごや旅館」さんの2階の部屋から撮っています。部屋の窓をあけると目の前が線路、という「鉄」にはこたえられないロケーション。
このときは違う部屋でしたが、この後再訪した時にはこの「線路際の部屋」に通され、雪が降る寒い日だったこともあり、部屋でコタツにあたりながら、列車接近の気配がすると窓を開け写真を撮るという、ありえないような横着撮影を決め込んだこともありました。
奈良井宿の全景です。左手の山裾に沿って町並みが続き、それが途切れるあたりが奈良井の駅。線路は奈良井を出ると、大きくカーブを描きながら、サミットの鳥居峠(鳥居トンネル)へ分け入って行きます。現在はカーブの始まるあたりから一直線に複線の新しい線路とトンネルで、一気に峠の向こうの薮原まで結ぶ線形になっているようです。
峠に向かうキハ58or28,2連のローカルDC。線路の向こうを流れるのは奈良井川、この川の流れる先は日本海。一方鳥居峠を越えると、水の流れは木曽川となって、太平洋に注ぎます。鳥居峠は、表日本と裏日本を隔てる分水嶺なのでした。
手前の工場(おそらく今も盛業中の「木曽アルテック」)の構内に線路らしきものが見えます。当時は気づかなかったのですが…。工場内部の資材の移動用にしては、しっかりした感じだし…、もし詳細ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただければありがたく…。
上の写真で見下ろしたカーブを、奈良井から鳥居峠に向けて登ってくる貨物列車。このあたりは勾配20パーミルくらいあったと思うのですが、D51が単機で頑張っています。空気が冷たく、湿っているのでしょう。白煙が谷間に長く長くたなびいています。
同じ列車をふりむきざまに。D51が突入するのは豊口トンネルという名前だったそうです。「57」の表記は「(中央線始点の)東京から数えて57個目のトンネルという意味だとか。この先、頂上の鳥居トンネルの入口の遺構には「58」の表記が見られるそうです。
クルマでは入っていけない、旧中仙道の鳥居峠への山道を辿って行きます。山を下ってきた貨物列車。
旅客も貨物も、D51一辺倒だった中央西線も、ちょうどこの頃からDD51の投入が始まったようです。下りのローカル列車が、エンジンのアイドル音も軽やかに、坂を下って行きます。
谷間は徐々に狭くなり、このあたりから鉄道、川、国道はめまぐるしく位置関係を変えていきます。上りのローカル旅客列車を牽くのはD51820。
奈良井川を渡るD51の貨物列車。2両目につながれた緩急車のデッキに、煙が滞留してしまっているのが面白いですね。
このあたりまでくれば、サミットのトンネルまであとわずか。遠く雪を頂くのは御岳でしょうか?
そんなわけで、またまた相変わらずのモノクロの昔写真を引っ張り出して、ご機嫌を伺う次第なのであります…。
昭和41年の晩秋。大月駅。EF131に牽かれた上りの客レ。機関車の次位には春までの間、暖房車(マヌ34?)がつながれています。機関車の右側、山裾に工事中の構造物が見えていますが、中央高速でしょうか?
下りの165系電車急行アルプス(でしょうね、たぶん)に乗った私と母は、晩秋の中央東線を長野県へ向かっています。しばし沿線のスナップを御覧ください…。
上りの元祖山スカ71系とすれ違い。駅の看板が旅館ばっかりなので、石和(温泉)駅? クハ76の前面窓はまだ木製で、窓の内側に「新宿行き」の方向札をぶらさげています。
甲府駅。今度はEF1311牽引の上り客レ。暖房車から盛大に煙が上がっていますね。曇りがちでいまにも雨が降りそうな天気。外はきっと寒いんでしょう。
ED61の重連は上りの貨物列車でしょう。機関車の向こう側におそらく新製配置されたばかりの「新」山スカ・115系が見えます。44年前と同じ線区を今も走り続けているんだから…凄いですねぇ…。
電車は甲府駅を出発。韮崎方の留置線に、塩山-甲府-韮崎のチョン行運用に入っている、身延線のクモハ14+クハ47が止まっていました。17メートル低屋根のクモハ14が20メートル車のクハ47をひっぱる姿は「子供がオトナを引っ張るよう…」なんて言われてましたね。
同じ編成をクハ47側から。電車の左側に、やはり新製間もないEF64が顔をのぞかせています。
甲府から先の中央線が電化されたのは、上諏訪までが昭和39年(1964年)の8月、松本までがこの年、昭和40年の5月、とのこと(上諏訪-辰野は昭和37年に電化済)。電車特急「あずさ」が走りだすのは、翌年、昭和41年10月改正からです。
上りの急行「アルプス」と行き違う。広い駅構内、小淵沢あたりでしょうか?
上諏訪では飯田線から乗り入れの電車と遭遇。このご面相はクハユニ56?
この頃はまだ岡谷と塩尻を直接結ぶみどり湖経由の路線は開通しておらず、辰野から善知鳥峠を越えるルートを経由して、電車は父の待つ塩尻に到着しました。
先に「母と二人で旅行」と書きましたが、私の父はこの頃、クルマでのドライブと8mm映画に凝っておりました。信州がずいぶん気に入っていたようで、休みの日など、朝早くから出かけ、夜遅くに帰っては「今日は700キロ走った」なんてごきげんで話しておりましたが…この時は、私と母をお気に入りの「木曽路の宿」に連れていこうと思い立ったようです。例によって父は朝早く家を出て、ドライブ&撮影。仕事と学校がある私と母は、午後の急行で新宿を出て、塩尻の駅で父と待ち合わせ。どうにか無事に合流して、父の運転するクルマで暮れなずむ国道19号を、中央西線に沿って南下。向かった目的地は、塩尻から20キロほどの「奈良井」。
旧中仙道の宿場町の面影が残る「奈良井」は、いまではけっこうな観光地として訪れる人も多いようです。そこは44年前も変わらないのですが、中山道の宿場町としては、島崎藤村の「夜明け前」に出てくる「馬籠宿」あたりに比べると、知名度では一歩譲っていたように思います。
そんな奈良井宿の街並みの真ん中辺りにあったのが、創業寛政年間と言われる旅籠をそのまま残す「ゑちごや旅館」さん。
「旅籠行燈」古の旅人は、これを目印に一夜の宿を求めたのでしょう。
手前の「ゑちごや」さんと、昭和41年の奈良井の街並み。
「ゑちごや旅館」さんは今も変わらず営業を続けていらっしゃって、ホームページもありました。44年前に比べると、通りに面したガラス窓は格子戸にしつらえ直され、ブラッシュアップしていますね。
http://naraijyuku-echigoya.jp/
近くの大宝寺というお寺には、キリシタン禁制の頃、マリア像を「子育て地蔵」と隠し奉っていたけれど、露見し首が落とされてしまったという言い伝えのある「子育てマリア地蔵」が安置されていました。
そのお地蔵様の前の父と母。思いっきり顔を出しちゃってますが、父は他界して15年を超え、母もいまでは90歳…、まっ、いいか。
そんな具合にシブい奈良井の宿。中学生の私も、歴史のお勉強に精を出し…んな訳はないですね。もちろん私が父母に同行したのは別の目的があったわけで…。
「ゑちごや旅館」さんは、表通りに面した間口は、それほど広いわけではないのですが、中に入るとウナギの寝床よろしく、いくつもの部屋が連なる長大な建物。その裏側に出ると、こんな光景が…。
狭い砂利道を挟んですぐに中央西線の線路が走っていました。
名古屋方面へ向かう上りの貨物列車が、サミットの鳥居峠をめざして驀進していきます。
似たようなカットですが、この写真、「ゑちごや旅館」さんの2階の部屋から撮っています。部屋の窓をあけると目の前が線路、という「鉄」にはこたえられないロケーション。
このときは違う部屋でしたが、この後再訪した時にはこの「線路際の部屋」に通され、雪が降る寒い日だったこともあり、部屋でコタツにあたりながら、列車接近の気配がすると窓を開け写真を撮るという、ありえないような横着撮影を決め込んだこともありました。
奈良井宿の全景です。左手の山裾に沿って町並みが続き、それが途切れるあたりが奈良井の駅。線路は奈良井を出ると、大きくカーブを描きながら、サミットの鳥居峠(鳥居トンネル)へ分け入って行きます。現在はカーブの始まるあたりから一直線に複線の新しい線路とトンネルで、一気に峠の向こうの薮原まで結ぶ線形になっているようです。
峠に向かうキハ58or28,2連のローカルDC。線路の向こうを流れるのは奈良井川、この川の流れる先は日本海。一方鳥居峠を越えると、水の流れは木曽川となって、太平洋に注ぎます。鳥居峠は、表日本と裏日本を隔てる分水嶺なのでした。
手前の工場(おそらく今も盛業中の「木曽アルテック」)の構内に線路らしきものが見えます。当時は気づかなかったのですが…。工場内部の資材の移動用にしては、しっかりした感じだし…、もし詳細ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただければありがたく…。
上の写真で見下ろしたカーブを、奈良井から鳥居峠に向けて登ってくる貨物列車。このあたりは勾配20パーミルくらいあったと思うのですが、D51が単機で頑張っています。空気が冷たく、湿っているのでしょう。白煙が谷間に長く長くたなびいています。
同じ列車をふりむきざまに。D51が突入するのは豊口トンネルという名前だったそうです。「57」の表記は「(中央線始点の)東京から数えて57個目のトンネルという意味だとか。この先、頂上の鳥居トンネルの入口の遺構には「58」の表記が見られるそうです。
クルマでは入っていけない、旧中仙道の鳥居峠への山道を辿って行きます。山を下ってきた貨物列車。
旅客も貨物も、D51一辺倒だった中央西線も、ちょうどこの頃からDD51の投入が始まったようです。下りのローカル列車が、エンジンのアイドル音も軽やかに、坂を下って行きます。
谷間は徐々に狭くなり、このあたりから鉄道、川、国道はめまぐるしく位置関係を変えていきます。上りのローカル旅客列車を牽くのはD51820。
奈良井川を渡るD51の貨物列車。2両目につながれた緩急車のデッキに、煙が滞留してしまっているのが面白いですね。
このあたりまでくれば、サミットのトンネルまであとわずか。遠く雪を頂くのは御岳でしょうか?
中央線の当時の様子が生き生きと伝わって来て、楽しい記事ですね~!
EF13+暖房車、山スカ、低屋根クモハ14、将棋の駒みたいな急行ヘッドマーク、みんな懐かしいです。
奈良井宿の宿の窓から撮影できるのは<ものぐさ2号>としては大歓迎!
それにしても、この当時の亜幹線の線路は風景に見事に溶け込んでいますね。
最近は線路も道路も、周囲から<浮いてる>のは何故なんだろう?
by Cedar (2011-11-13 18:07)
こんばんは
ドキュメンタリー番組を見るように
拝見させていただきました
それと暖房車なる存在を初めて知りました!
by gardenwalker (2011-11-13 21:40)
親孝行の息子さんをもって、ご両親は喜ばれた事でしょう。
ディーゼルも少し混ざっていますが、
まだまだ蒸気機関車全盛の姿が貴重です。
by manamana (2011-11-13 21:58)
おはようございます。
写真一枚掲載し忘れ(甲府駅のED61)ておりましたので追加掲載しました。失礼いたしました。
Cedarさん
いいでしょう!? これからの季節、コタツにあたりながら窓から鉄撮影ができる(できれば温泉付き)ような宿、どっかにないですかねぇ?
この頃は幹線国道が整備されつつありましたが、まだまだ許容範囲ですね。乗っているぶんには便利でも、山をトンネルでぶち抜き、谷を巨大な高架橋で渡り…という高速道路や新幹線のスタイルは、やはり景観の破壊以外のなにものでもありませんね。
gardenwalkerさん
そうか!? 暖房車どころか、SGなんてものも絶滅しちゃったんですね。電気機関車牽引なのに煙を吐いていたり、客車の連結部から盛大にスチームが漏れていたり…というのは冬の鉄道風物詩でありました。
manamanaさん
この辺りまで行くと、東京圏を離れて名古屋圏に入ったことを実感しました。客車やDCの所属表記が「名ナコ」や「名タミ」だったり、機関車の所属札が「稲一」や「中」だったり…。
フジトモさん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-11-14 07:07)
先日辰野駅を訪問しました。奈良井宿にも行ってみたいです。
by ドラもん (2011-11-14 20:46)
ドラもんさん
ひさしぶりに123系ミニエコーやクモヤ143の顔を見せて頂きました。ありがとうございます。長野は風景の美しいところがたくさんありますが、谷あいの宿場町・奈良井は地味ですが素敵なところですね。
by maipenrai (2011-11-15 07:45)
スミマセン、どうしても蒸気より電車や気動車に目がいってしまいます。
元祖山スカ71系や飯田線のクハユニ、さらにED61の向こうにチラりと
見えるデカ目の115系や165系など、この頃は新旧の車両が混在していて、
きっと楽しい時代だったのでしょうね・・・。
by あおたけ (2011-11-15 09:26)
あおたけさん
私自身なんにでも食いつくダボハゼ鉄を自認していますのでお気になさらずに…。昔のネガを見ていると、狙って(?)撮った写真より、なにげなく写したスナップのほうが、「あ、こんなもんが写ってる」という発見があって面白いです。
by maipenrai (2011-11-15 16:26)
私も大体この時代に藪原から峠越えをして奈良井まで歩きました。奈良井宿が眼下に見えた時、中央西線に丁度D51貨物が走って来て感動した覚えがあります。
宿から線路が見えると、今もそうですが興奮して落ち着きませんね。
by シュウチャン (2011-11-16 00:42)
シュウチャンさん
以前、御ブログで中央西線を名古屋に向かう旅の記事を拝見しましたが、その頃でしょうか。それにしても鳥居峠を踏破するとは凄いですね。
素人写真さん
hanamuraさん
nexus6さん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-11-16 18:34)
1966年の晩秋ということは、まだ181系も115系も営業運転には入っておりません。甲府の115系は試運転なんでしょうね。
さて、下りの急行、窓のサッシが見えないようなので、支線直通の気動車急行の可能性があります。
まだ西線に特急のないこの頃なら、急行は8~10両が当たり前なのに・・・ということは、中津川から長野へのローカル急行でしょうか。
by なにわ (2011-11-17 18:09)
なにわさん
ご指摘ありがとうございます。
いわれてみれば、小淵沢までの坂道をうなりながら上っていったような記憶も…。自分の乗った列車ぐらい、写真を押さえておけよ! ってことですね(笑)。
ちょうどこの時のネガの前半に、千葉気動車区で撮ったキハ90/91試作車が写っていました。この後間もなく、大出力気動車が木曽路を走るようになったんですね。
by maipenrai (2011-11-18 20:23)
撮影の角度がわからないので断定できませんが奈良井の正体不明の線路は、恐らく木曽森林鉄道の黒川線の一部だとおもいます。廃止後の今も1編成列車が放置されています。
by Vicuna (2012-03-28 23:52)
Vicunaさん
ご教示ありがとうございます。木曽の林鉄といえば、上松から出ていたものしか知識になく、よもや奈良井に林鉄があったとは、まったく知りませんでした。黒川線は1959年に廃止されたとのことですが、この写真を撮影した7年前まで存在していたということ。しっかり探せば、まだ遺構や痕跡が数多く見つかったことでしょうね。
by maipenrai (2012-03-30 20:53)