貴婦人の地味~なお仕事 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]
誰が言い出したのか、機関車C57のニックネーム「貴婦人」。
いや、別に異を唱えようってわけじゃないんです。亜幹線の優等列車の先頭に立って颯爽と風を切る、スタイリッシュなC57のイメージには、なかなか合っているニックネームだと思ってます。
だけど…個人的な体験でいえば…もっぱら地元・千葉で見かけたC57のことですが…貴婦人と呼ぶにはちょっとばかり地味な印象が拭えません。客車列車を牽いて、両国や上野にやってきたり、海と山が交錯する房総西線を、テールマークをつけた夏臨の客車を牽いたりするのが千葉のC57のハレの姿だとすれば、日常ではこんな地味な運用もあったという…今回は「貨物列車を牽くC57」の画像を集めてみました。
逆向きの8620に正向きのC57という奇妙な重連の貨物列車が、新小岩駅を過ぎて中川&荒川放水路の鉄橋に差し掛かるところです…実はひと月程前の「新小岩機関区ハチロク編」でご紹介した写真の後追い(汗)ですが。
拡大してみると、ハチロクの機関助士、C57の機関士が身体を乗り出して前方注視しています。見るからに運転しづらそうな列車ですね。
新小岩の操車場で写真を撮っていたら、両国方面からC5755が牽く貨物列車が到着、慌ててシャッターを切ったところ(ブレてます・笑)。新小岩-両国間の貨物列車には、C57は定期では運用がなかったはずで、ハチロクの代走?
これも以前にご紹介した、市川駅のC57貨物入換風景。機関車はやはりC5755。向きからすると、上りの区間貨物の機関車のようで、国電が行き交う本線を跨いで北側にあった貨物扱い所で入換をしています。
船橋駅。下りの貨物列車の牽引機はC5759(この写真も以前に…)すみません。以下は未公開ネタ…のハズ…です。
旅客機であるC57(やC55)が貨物列車を牽く風景というのは、南九州の宮崎あたりを例外として、全国的にはあんまり見られなかったと思うのですが、なぜ千葉にはこんな運用が多かったんでしょうか?
千葉のC57というのは1960年に廃止になった千葉機関区に、5両だけ配置されていたんですが、その5両はそのまま新小岩機関区に移って、旅客列車中心の運用が続けられていました。
一方、佐倉機関区はハチロクとC58の天下でしたが、63年になってC57が2両配置され、成田線の上野乗り入れ客車列車を中心に運用を開始します。65年になると、田端(旧尾久)区がやはり持っていた成田線直通運用を移管する形で、4両のC57が配転され6両体制に…。さらに67年になると、各地で余剰気味になっていたC57が、佐倉区に集結しだし、一挙に11両体制となりました。C57が増えたぶん、前年には27両も配置されていたC58は21両とその数を減らすんですが…。
もちろんC57が増えたところで、もともとDC王国の千葉、そんなに客車列車が多いわけでもありません。増えたC57はC58の運用を肩代わりするんですが、かたや汎用機のC58、貨物列車を牽いて銚子に行って、折り返しは旅客を牽く、なんてお手の物だったわけで、そこにC57が割り込んでいった結果…やたら千葉にC57牽引の貨物が増えていった…というのは私の想像。実際のところはどうだったんでしょうね?
稲毛駅…だと思うんですが、C5785が牽く上り貨物列車が停車中。ランボードの白線(消えかかってますが…)が素敵。
確かこのカマは、日本海縦貫線の酒田から配転になった機関車で、キャブ前方窓がものものしく改造されていました。
稲毛-西千葉間の千葉気動車区脇を、新小岩区のC57125が牽く列車が通過していきます。
よくみれば、後ろに連なる客車はオール荷物車で、しかも2~3両編成?
気になって調べてみたところ、これはどうやら新聞輸送の荷物列車らしい。
千葉の新聞(昼下がりの夕刊)輸送といえば、キユニ11、キユニ19から始まって、電化後にはクモハユ74、クモユニ74、クモユニ143、そして最後は113系4連の最後尾を荷室として使うことで近年まで続いていたわけですが…。荷物気動車が投入される以前はこんな具合に荷物車が千葉までC57に牽かれ、その先は、各線の客車列車に併結、継走される形をとっていたんですね。
翌年春に電化を控えた総武線・四街道駅を降りて、物井駅方向へ歩き出したのは昭和42年の暮。物井から四街道へ向けて、ダラダラ登りを上ってくる蒸機列車を撮ろうという魂胆でしたが…。
当時の四街道駅のはずれは、こんな田園風景。汽笛一声、四街道駅を発車した下りの貨物列車は、C57に車掌車をぶら下げただけの超シンプルな編成。
新小岩操車場以遠から佐倉より先へ向かう貨車は、新小岩-佐倉の間を直行で結ぶ貨物列車がD51牽引で何本も設定されていましたから、新小岩-佐倉間を、国電区間を含む各駅で貨車を解結しながら走ってくる区間貨物は、この辺りまで来ると、こんな姿になっちゃうんですね。牽引機はシールドビーム一灯と形式入りナンバープレートが特徴的だったC5770のようです。
物井-佐倉、通称モノサクの旧線区間を行くC57134牽引の貨物列車。この日はなかなかの荷があったようですが、それでもここまでくれば終着佐倉は絶気で流しても指呼の間です。
…にしても、なんであの頃の千葉鉄道管理局はあんなにC57をかき集めたんだか…別にC58でいいじゃん…。しかも軒並みクルクルパーを装着して…。
どう贔屓目に見ても、やっぱり「貴婦人」と呼ぶにはためらっちゃうな。でもそんな千葉のC57と彼(彼女か?)らと出会った時間が、いまでも大好きです。
いや、別に異を唱えようってわけじゃないんです。亜幹線の優等列車の先頭に立って颯爽と風を切る、スタイリッシュなC57のイメージには、なかなか合っているニックネームだと思ってます。
だけど…個人的な体験でいえば…もっぱら地元・千葉で見かけたC57のことですが…貴婦人と呼ぶにはちょっとばかり地味な印象が拭えません。客車列車を牽いて、両国や上野にやってきたり、海と山が交錯する房総西線を、テールマークをつけた夏臨の客車を牽いたりするのが千葉のC57のハレの姿だとすれば、日常ではこんな地味な運用もあったという…今回は「貨物列車を牽くC57」の画像を集めてみました。
逆向きの8620に正向きのC57という奇妙な重連の貨物列車が、新小岩駅を過ぎて中川&荒川放水路の鉄橋に差し掛かるところです…実はひと月程前の「新小岩機関区ハチロク編」でご紹介した写真の後追い(汗)ですが。
拡大してみると、ハチロクの機関助士、C57の機関士が身体を乗り出して前方注視しています。見るからに運転しづらそうな列車ですね。
新小岩の操車場で写真を撮っていたら、両国方面からC5755が牽く貨物列車が到着、慌ててシャッターを切ったところ(ブレてます・笑)。新小岩-両国間の貨物列車には、C57は定期では運用がなかったはずで、ハチロクの代走?
これも以前にご紹介した、市川駅のC57貨物入換風景。機関車はやはりC5755。向きからすると、上りの区間貨物の機関車のようで、国電が行き交う本線を跨いで北側にあった貨物扱い所で入換をしています。
船橋駅。下りの貨物列車の牽引機はC5759(この写真も以前に…)すみません。以下は未公開ネタ…のハズ…です。
旅客機であるC57(やC55)が貨物列車を牽く風景というのは、南九州の宮崎あたりを例外として、全国的にはあんまり見られなかったと思うのですが、なぜ千葉にはこんな運用が多かったんでしょうか?
千葉のC57というのは1960年に廃止になった千葉機関区に、5両だけ配置されていたんですが、その5両はそのまま新小岩機関区に移って、旅客列車中心の運用が続けられていました。
一方、佐倉機関区はハチロクとC58の天下でしたが、63年になってC57が2両配置され、成田線の上野乗り入れ客車列車を中心に運用を開始します。65年になると、田端(旧尾久)区がやはり持っていた成田線直通運用を移管する形で、4両のC57が配転され6両体制に…。さらに67年になると、各地で余剰気味になっていたC57が、佐倉区に集結しだし、一挙に11両体制となりました。C57が増えたぶん、前年には27両も配置されていたC58は21両とその数を減らすんですが…。
もちろんC57が増えたところで、もともとDC王国の千葉、そんなに客車列車が多いわけでもありません。増えたC57はC58の運用を肩代わりするんですが、かたや汎用機のC58、貨物列車を牽いて銚子に行って、折り返しは旅客を牽く、なんてお手の物だったわけで、そこにC57が割り込んでいった結果…やたら千葉にC57牽引の貨物が増えていった…というのは私の想像。実際のところはどうだったんでしょうね?
稲毛駅…だと思うんですが、C5785が牽く上り貨物列車が停車中。ランボードの白線(消えかかってますが…)が素敵。
確かこのカマは、日本海縦貫線の酒田から配転になった機関車で、キャブ前方窓がものものしく改造されていました。
稲毛-西千葉間の千葉気動車区脇を、新小岩区のC57125が牽く列車が通過していきます。
よくみれば、後ろに連なる客車はオール荷物車で、しかも2~3両編成?
気になって調べてみたところ、これはどうやら新聞輸送の荷物列車らしい。
千葉の新聞(昼下がりの夕刊)輸送といえば、キユニ11、キユニ19から始まって、電化後にはクモハユ74、クモユニ74、クモユニ143、そして最後は113系4連の最後尾を荷室として使うことで近年まで続いていたわけですが…。荷物気動車が投入される以前はこんな具合に荷物車が千葉までC57に牽かれ、その先は、各線の客車列車に併結、継走される形をとっていたんですね。
翌年春に電化を控えた総武線・四街道駅を降りて、物井駅方向へ歩き出したのは昭和42年の暮。物井から四街道へ向けて、ダラダラ登りを上ってくる蒸機列車を撮ろうという魂胆でしたが…。
当時の四街道駅のはずれは、こんな田園風景。汽笛一声、四街道駅を発車した下りの貨物列車は、C57に車掌車をぶら下げただけの超シンプルな編成。
新小岩操車場以遠から佐倉より先へ向かう貨車は、新小岩-佐倉の間を直行で結ぶ貨物列車がD51牽引で何本も設定されていましたから、新小岩-佐倉間を、国電区間を含む各駅で貨車を解結しながら走ってくる区間貨物は、この辺りまで来ると、こんな姿になっちゃうんですね。牽引機はシールドビーム一灯と形式入りナンバープレートが特徴的だったC5770のようです。
物井-佐倉、通称モノサクの旧線区間を行くC57134牽引の貨物列車。この日はなかなかの荷があったようですが、それでもここまでくれば終着佐倉は絶気で流しても指呼の間です。
…にしても、なんであの頃の千葉鉄道管理局はあんなにC57をかき集めたんだか…別にC58でいいじゃん…。しかも軒並みクルクルパーを装着して…。
どう贔屓目に見ても、やっぱり「貴婦人」と呼ぶにはためらっちゃうな。でもそんな千葉のC57と彼(彼女か?)らと出会った時間が、いまでも大好きです。
こんばんは
まだまだ日常の中で活躍していた
SLたちの写真を見て思ったのですが
現代の復活したものよりも排煙版が大きくて
ダンボの耳のように私には見えます
それだけでも時代を垣間見た気分になりました
by gardenwalker (2011-11-25 00:14)
かなり小さいころから夏休みは高岡(富山県)に行っていた。急行白山は軽井沢を過ぎると(たぶん)汽車が引張っていたようです。8時間もかかり顔中煤だらけ、鼻の中も真っ黒になっていたので汽車に対する印象はあまりよくなかった。今娘の住んでいるところでは休日は汽車が運行されます。谷間に響く汽笛の音は当時の懐かしさを思い出させてくれます。
by TAC (2011-11-25 06:18)
真っ黒い機関車に真っ黒い貨物、
懐かしい光景です。
トラとかワムとかタキとか、通過するのを飽きずに眺めたものです。
冬だとたまに雪を乗せて走ってくるものがあったりして、
雪国へ思いを馳せました。
by manamana (2011-11-25 06:28)
テキスト中の南九州・宮崎の貨物列車という記述に反応してしまいました。
日豊本線の田野あたりでそんな写真を撮ったような気がします。
いつかUPします~ってSL写真だけ並べるってのは、プライドが許さない(笑)ので、記事構成のアイデア思いついたら、という事で・・・・
by Cedar (2011-11-25 10:35)
私が初めて千葉へ行ったのは、物井〜佐倉間が新線に変わった後です。もうその頃はC57牽引の貨物の話は聞かなくなった気がします。
by ひもブレーキ (2011-11-25 11:23)
gardenwalkerさん
ダンボの耳、面白い表現ですねぇ。言われてみるとそういうふうに見えてくるから不思議です(笑)。C57はボイラが細くて、いっそうそう見えるんでしょうね。
TACさん
急行「白山」だと、蒸気機関車も重連だったのでは…煤煙×2、たいへんな旅だったんでしょうね。休日ごとに蒸機の汽笛が聞こえるとはうらやましい…、私自身、最後に汽笛の音を聞いたのがいつのことだか、さっぱり思い出せません。
manamanaさん
長い貨物列車の中に、ぽつんと屋根に雪を乗せた貨車が…ありましたねぇ。今でも首都高速などで、雪をかぶった長距離トラックを見かけると、ちょっとワクワクしちゃったり…。
Cedarさん
南九州にいらっしゃってたんですね。もっとも当時の彼の地で「電車」といえば鹿児島の市電くらい…、エレキ派のCedarさんには辛い旅だった? あ、でも「電気式」ディーゼル機関車は走ってましたね。ダメか?
日豊本線のライトパシフィック、楽しみに待っております。
ひもブレーキさん
昭和43年3月の成田電化と同時に、佐倉-物井が新線に切り替わったんでしたね。その後はDD51やDE10が大量投入されて、蒸気機関車の牙城だった佐倉機関区が、DL専門に衣替えするのは、あっという間だったような気がします。
hanamuraさん
フジトモさん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-11-25 15:59)
こんばんは。
いつもSLの写真感動して見させていただいています。
前にNHKで西日本のSLと言う番組があり見入ってしまいました。
SLは良いですね(^^)
by よしくん (2011-11-25 20:37)
現役時代を殆ど知らず、雑誌等の刷り込みで 「貴婦人」・「旅客用」と思い込んでおりました...
でも、それこそ鉄道が貨物輸送の主流を担っていた時代ですもの、いろいろと融通をつけながら運用するのはアタリマエですよね (^^)
近年になって通いだしたモノサク、40~50年前にタイムスリップしてみたいです。
by nexus6 (2011-11-26 20:53)
こんにちは。
C57が牽く貨物列車は、実は見ていません。おそらくは、佐倉から千葉寄りには滅多に行かなかったからだと思います。
佐倉から東では、旅客はC57、貨物はC58となっていたようで、C58が客レを牽くのを見たのは成田臨だけでした。
by 伊 謄 (2011-11-27 01:18)
よしくんさん
nice&コメントありがとうございます。いつも古臭い写真ですみません。
nexus6さん
貴兄のモノサク・ショットを拝見しては、いつも往時を思いだしてしまうんであります。冬枯れの田園地帯…好きだったなぁ。久しぶりに行ってみたい…だが、しか~し! ……詳細は次回更新ブログにて。
伊 謄さん
C57貨物、定期的な運用ではなく、一部のC57がC58との共通運用に組み込まれていたか、あるいは代走に入ったか…だったのでしょうね。狙って撮った写真ではなく、ご覧のとおり、たまたま見かけてシャッターを切ったものばかりです。
素人写真さん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-11-27 09:47)
はじめまして こんにちは
知り合いのリンク先で、当ブログを知りました。
素晴らしい画像の連続に感動しています。
総武線西千葉に住んでいたので、昭和30-40年代
のSL達は毎日飽きずに眺めていました。このC57達も見かけた
釜たちです。総武本線の蒸気がさよなら運転で終了した、よく10月
から二ヶ月間新小岩ー佐倉の定期ローカル運用387レに新小岩区
のC57105とC5759番が行き来していて、毎日撮影していました
管理人様の撮影されていた四海道ー物井間にも自転車で通いました。
また きます。
by みやちゅう (2011-11-27 12:14)
みやちゅうさん
はじめまして。C57105とC5759といえば、佐倉区から移って、一番最後まで新小岩区に残った2両ですね。69年9月で千葉から蒸機旅客列車が消えたはずなのに、70年までC57の配置が残っていて「何をしていたんだろう?」と思っていました。
千葉から四街道のダラダラ登りは蒸機でもけっこう喘いでいたのに、自転車で撮影行、凄いですね。
今後ともよろしくお願いします。
by maipenrai (2011-11-27 15:10)
しまりすさん
くまくんさん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-11-29 07:41)
J-powerさん
あおたけさん
シュウチャンさん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-11-30 17:09)