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昭和38年冬、新宿ルミネ前 [昔鉄(フジペットシリーズ)]

 今回はいきなり拡大写真から。どこかの地方都市のような街並み、2階建ての家屋が立ち並んでいます。「ハトヤ時計店」の隣は「トリスバー」、柳原良平画伯描くアンクルトリスのテレビCM…ウィスキーを流し込むたび、首から上が「赤く」染まっていく(モノクロTVなのに、ネ…がさかんに流れていた頃でしょうか。
 併用軌道なのか、踏切なのか、道路を横切る線路は雨に濡れています。架線は路面電車にありがちな直接吊架ではなく、郊外電車のようなシンプルカテナリー…。
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 さて、ここはドコでしょう…って、右隅にちょっとだけ写ってる電車が、あまりにも特徴的なのでもうお分かりですね…っていうか、タイトルでネタをバラしてるし(笑)。

 あざとい導入ですみません。
 ハイ、これが写真の全体像です。幹線道路の甲州街道上を走ってきた京王電車…いちおうセンターリザベーションで、車道とは分離していたようですが…が、新宿駅南口の国鉄線路を跨ぐ陸橋の手前で、左に急カーブをきり、地上にあった京王線新宿駅に進入しようとしているところです。
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東海道新幹線 鴨宮モデル線区 [昔鉄(フジペットシリーズ)]

 小学生の頃…。私の家族は毎年夏になると熱海へ家族旅行に出かけていました。いや…そんなブルジョワな家庭であったわけではまったくなく、母が小学校の教員をしていたため伊豆山にあった教員組合の保養所に行っていただけなのですが…。
 とはいえ、教員という安定した職を持った母がいることで、小さな軽印刷所を営んでいた父は、結構好きにやっていたように思えます。
 昭和36年(37年かもしれない)の夏休みも、恒例の家族旅行に出かけたわけですが、それまで湘南電車で行っていた熱海行きは、マイカーでの旅行となりました。その頃、我が家にやってきたマイカーというのは、ルノーの4CV。日産がノックダウンで製造していたクルマ。当時トヨタクラウン(観音開きのドア)のタクシーは初乗り80円、一方初乗り60円で走っていたのがルノータクシー4CVで、その何年落ちかのクルマが、我が家の初のマイカーとなったわけです。
 実はこれが酷いシロモノでして…床の鉄板はところどころ穴があき、走行中に地面が見えるとか、ブルーの塗装はところどころはげ落ちて見かねた隣家の奥さん(プラスチックのオモチャを加工していた)が青い塗料を持ってきて「これで塗りなさいよ」といってくださったりとか…。
 まぁ、そんなオンボロ車で、国道1号線を熱海に向かっていたわけです。今でも箱根駅伝の平塚中継所-小田原中継所は旧1号線を走りますね。国府津を過ぎたあたりで、私が言ったのかなぁ…「鴨宮の先に新幹線の試運転の基地があるから寄って行こう」と。
 野次馬根性旺盛な家族は国道1号を右折して、農道のような狭い道を入っていくと、盛土の高架が目の前を横切っている。東海道新幹線鴨宮モデル線区の築堤です。
 東海道新幹線は昭和39年(1964年)、東京-新大阪間で開業しますが、それに先立ち鴨宮付近から東京より相模川を超えたあたり、いまの相模線倉見駅近くでしょうか…を「モデル線区」として先行的に工事を完成させ、試作電車を走らせて開業に備えていたわけです。
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 今の東海道新幹線が小田原の手前、酒匂川の鉄橋手前で旧東海道線と寄り添うあたりに、「モデル線区」の事業施設がありました。(それにしてもなんていうアングルだ!?)

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鉄道博覧会~昭和37年 [昔鉄(フジペットシリーズ)]

 雨こそ降らないけれど、どんよりした空模様、なにより6月に入ったとは思えない気温の低さで、気分も体調もパッとしません。仕事が詰まって気晴らしに短時間、線路際に立つこともままならず、本ブログの更新もとどこおりがち。
 そういえば、ブログ開設時に「マイカテゴリ」の設定を求められ、思いつくまま作成したはいいけれど、さっぱり記事本数が増えていかないカテゴリがいくつもあって、「おでかけ鉄」が都電荒川線1回きりじゃ、いかにも寂しい…といって、どこにも出かけていないから仕方ないんですが…。

 ということで、やはりさっぱり記事が増えない「フジペットシリーズ(シリーズになってない?)」の古ネタを引っ張り出してみました。
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 昭和37年(1962年)6月、東京晴海にあった東京国際見本市会場で「伸びゆく鉄道科学大博覧会(鉄道博)」というイベントが催されました。

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昭和の小坊の幸せな休日~上野駅編 [昔鉄(フジペットシリーズ)]

また後日、などと書いてほっぽらかしにしていた小学生時代の写真、今回は上野駅編です。
 前回の東京駅編
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-02-04
 は結果的に昭和36年白紙改正当時の東京駅での写真でしたが、今回は一年その8ヶ月後、昭和37年(1962年)6月ダイヤ改正当時の上野駅の情景…だと思います、たぶん。。
 37年6月改正での一番のトピックは、上越線経由上野-新潟に電車特急とき(朱鷺)が誕生したことでしょう。電車特急といえば東海道線こだま、つばめなどに使用されていた151系、それに抑速ブレーキ&耐寒装備を付け加えた161系がデビューした年であります。
 で、やっぱり見に行っちゃってますね、ミーハー小学生。
 ゴールデンウィークのさなか、5月3日に起きた三河島事故の記憶も生々しい6月10日日曜日、新潟を朝8時30分に出発した161系9両編成の「とき」は、昼下がりの13時10分、上野駅高架6番線に到着しました。
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見た目は151系と変わらないものの、新系列を主張するボンネットを取り巻く鉢巻。ヘッドマークに併記された漢字の「朱鷺」が印象的でした。
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 ときが到着するこの時間、隣の7番線には常磐線回り青森行き特急「はつかり」が発車を待っています。のちに「ブルドッグ」なんて呼ばれたキハ81,当時の小学生は「獅子舞の獅子」みたいな顔だなぁ…と思っていたんですが、いかがでしょうか?
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 ともあれ、昼下がりの上野駅高架ホームでは、電車特急と気動車特急の並びが毎日実現していたんですね。因みに下り「とき」の上野発は16時過ぎ。いったん所属の田町に回送する必要性から、高架ホームに発着していたため、こんな並びが成立したんだろうと思います。
 上野駅を発車する特急は、他には朝8時の「白鳥」。これは信越線回りで横軽のアプトを超え、直江津で青森からの「白鳥」を併結して大阪に向かうという上野発北陸線回り大阪行、今から思えばとんでもない運転区間の特急です。ところで左側に写ってるスカ型70系電車が気になるんですが…。
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 また昼過ぎには奥羽線回り秋田行の「つばさ」が発車します。これは秋田に着くとほぼ同着で大阪からの青森行き「白鳥」と接続するという、まぁ列車本数が乏しい割に、実に考えぬかれた特急ネットワークが形成されたいたのですね。いずれも前年36年10月改正から運転開始されています。
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 さて、37年の10月のダイヤ改正では、東北線回りで上野-仙台間に電車急行「みやぎの」が運転を始めています。勝田電車区に配置された新鋭451系電車を使用したもので、早朝勝田から上野まで回送、上野発7時45分で仙台を往復、夜9時過ぎに上野に帰ってきて、すぐ常磐線の415Mときわ8号として日立まで運行、勝田に戻るというハードな運用だったようです。
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フジペットの写真があまりにも汚いので、少し後に撮った写真も御覧いただきます。楷書体のHM,水カツの所属表記はそのままですが、車両のドアが通常のタイプです。451系の初期型は外吊りのドアでしたね。
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 同じ頃の地平ホーム。これも写真汚いなぁ。急行型DCですが、信越線長電に乗り入れていたキハ57系「志賀」かなぁ。小学生の「顔写真」だけではではなんの証拠も残りませんね。
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 高崎線、東北線筋の一般電車の主力は湘南80系でした。3両目までは全金属300番代で揃った編成。
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 東京駅にはないけど、上野駅では見られたもの。それが蒸気機関車です。成田線筋のC57、C58はご承知のとおり遅くまで残るんですが、常盤筋に残っていた客レを牽くC62。私が上野で撮った唯一のカットです。昭和36.37年のどこかで撮ったことには違いないのですが、さて、いつ撮った写真なのか? 
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36年には既に勝田までは電化が完了しており、一部残ったSL運用も37年の高萩電化時点で、上野-水戸間はすべてEF80に置き換え完了、と記憶しているんですが…。このC6210は仙台に配転された後、再会しているんですが、常盤のC62の中では早くに廃車になってしまったカマですね…。
 なんてことは、もう少し後、常磐線北部から東北の大型蒸機に夢中になりだしてからの話です。
 昭和36,37年の小坊は、親にねだったフジペット片手に東京駅、上野駅を行ったり来たりの日曜日、実車に飽きれば万世橋にあった交通博物館に行って3階のホールで映画を見たり(「ある機関助士」なんども見ました)、図書館で鉄雑誌を読みふけったり…、う~ん、やっぱり幸せな時代だったと思います。

昭和の小坊の幸せな休日~東京駅編 [昔鉄(フジペットシリーズ)]

 古いネガを漁りながら思ったこと。いったい私が一番最初に撮った「鉄写真」はなんだったんだろう? 親に無理やりねだってカメラを買ってもらった時のことはよく覚えている(そうとう無茶な駄々をこねたもので)のですが…。小学校4年生の夏過ぎ、昭和36年(1961年)のことです。私たちの世代だと、親のカメラを借りて写真を撮り出す、というケースが多いようなんですが、私の父は当時8ミリ映画に凝っていて、スチールカメラはウチになかったんじゃないかな。
 そんなこんなで初めて手にしたカメラは「フジペット」です。
 Cedar さんのブログ
http://cedarben.blog.so-net.ne.jp/2010-12-18
 で、このカメラのことが紹介されています。もっとも私が手にしたのはEE機構がついていない廉価版タイプです。確かに当時のカメラの水準では、破格に安い入門機でしたが、けっして楽な暮らし向きではなかったハズの当時の我が家、親にはずいぶん無理をさせたんじゃないか、と今になって思います。それはともかく、このカメラ、フィルムがブローニー版なのです。ですから、残っているブローニーのネガの中に、私が最初に撮った「鉄写真」があるはず…。
 それでひょっとしたら、この写真が「鉄デビュー作」ではないか、というのを見つけました。
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東京駅の12/13番ホームから15番線に停まっている特急・富士を写しています。なんで隣のホームから撮ったんだろう? 「点と線」じゃないんだから…。それはともかく、場所は神田寄りですから、富士の最後尾を撮っているわけですが、拡大してみるとヘッドマークの周囲が綺麗に飾りつけられています。あれ? これって運転開始当日でしょうか。
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 昭和36年は10月1日に国鉄のダイヤ大改正が行われ、東海道線に電車特急、電車急行が大増発されました。151系の「富士」もこのとき誕生したもので、大阪、神戸を超えて宇野まで直行した電車特急です。この写真が10月1日だとすれば、電車の先頭では華々しい発車式が行われていたはず。なんで最後尾を隣のホームから撮っているのか? あまりの人だかりにビビったんでしょうか。なにしろ小学生だし。
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 次のカットは15番線の「つばめ」です。「富士」が8時発だったと記憶していますから、、9時発の「第一つばめ」でしょう。なるほど左手女子高生のいるあたり、ホームの柱に紅白の布がまかれ、なにやら飾り付けもされています。
 同じホーム14番線に停まっているのは、やはりこの日から運転を開始した急行「六甲」101M。ヘッドマークの書き換えが間に合わなかったのか、紙に筆書きで「六甲」の文字。こんなので大阪まで飛ばされずに持ったんでしょうか?
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 ここまでは怖ず怖ずとホーム撮りしていた小学生、午後の「はと」を撮る頃には線路に降りちゃってます。
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ファンの数も少なく、やかましく言われることもなかった時代とはいえ、さすがにこれは50年前の自分に「喝!」だな。
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 あこがれの151系の運転室ものぞかせてもらっているみたいです。
 いい加減な記憶で書いていますが、この改正で大増発された東海道線の電車特急、上りの一番列車は名古屋発の「おおとり」でした。確か昼頃東京に着いて、13時発の「はと」で折り返す運用ではなかったでしょうか。
 有楽町寄りで、東京駅の9番線から12番線を一発撮りしています。
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9番と12番に湘南電車80系。10番には上りで到着した151系特急が停まっていますが、無理やりアップにしてみると、係員がヘッドマークの交換作業中?に見えます。
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右に目を移すと一般人?が堂々11番ホームから機回し線の11番をまたいで12番ホームへ移動中?
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 その機回し11番線で撮ったEF58の牽くブルートレイン。あいにくヘッドマークは後ろに隠れてます。九州発のブルートレインは、到着するといったん神田方の留置線へへ引き上げてから機回しして品川へ回送という運用が多かったと思います。
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 もう一枚、これは「さくら」でやはり回送の出発待ち。撮影したのは別の日かも…。
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EF58の牽く「はやぶさ」の到着。ブルートレインの牽引機はまもなくEF60500番代に変わっていくので、ゴハチの写真はほとんど撮っていません。
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 7番線に停まっている準急「日光」157系です。余談ですが、左の京浜東北線の電車のナンバーはクハ16854と読めます。進駐軍専用車の格下げ車ですね。38~39年頃まで京浜東北で走っていて、巡り合わすと幸せな気分になりました。
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 157系といえば、こんな電車も東京駅でみかけました。皇室専用クロ157。
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 111系も「最新鋭」として東海道線に投入されたばかりの頃です。
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111と相棒を組んだクモユニ74も荷電ホームから顔をのぞかせています。奥のダブルルーフの客車が気になるけど、フジペットの解像力ではいかんとも…。
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 さてさて、こうしてみると特急や最新鋭の電車ばっかり撮ってますね。スカ線70系や湘南の80系など見向きもしてません。小学生とはいえ、かなりのミーハーっぷりであります。もっとも中学に上がる頃になると、ミーハー鉄に加えとりあえずなんでも撮ってしまう「ダボハゼ鉄」の要素がだんだん強くなっていくのですが…。
 ともあれ、フジペットを手にした昭和の小学生は、こんな具合に花形列車が集う東京駅や上野駅をチョロチョロしながら鉄にのめりこんでいったのでありました。上野駅編はまた後日、ということで。

上田丸子電鉄、真田傍陽線瞬景 [昔鉄(フジペットシリーズ)]

 小学生の頃、当時叔母が勤めていた兜町の証券会社の社内リクリエーション(というのかな?)のスキーツアーに何度か同行させてもらったことがあります。バスを借りきって、行きは夜行ですからおそらく金曜の晩に東京を出発、土曜の未明にスキー場に着いてその日一日と日曜の午前を滑り、午後には現地出発、夜に東京に着く、というスケジュールだったと思います。行く場所にもよりますが、高速道路などない時代、片道7,8時間はかかったような…。高度成長期のただ中、昔の人はよく働き、よく遊んだのですね。
 このときの目的地は菅平。宿で出された野沢菜漬けがやたら美味かったということ以外、なにひとつ覚えていないのですが…。
 さて、遊び疲れた帰り道。山を下り終え、上田の街まではもう少し、というところでバスが止まってしまいました。窓の外を見ると、はるか向こうに雪をかぶった山々、見るとその手前に電車の線路がある。たぶん旅の思い出に風景写真でも撮ろうかと思ったのでしょう。カメラ(フジペット)を取り出したその時、単行の「古い電車」が目の前を左から右へゆっくりと横切って行きました。夢でも見ているような光景…。
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 あわててシャッターを切った興奮が覚めるまもなくさらにもう一台。こんどは単行電車に貨車がぶらさがっています。
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 上田丸子電鉄、真田傍陽(そえひ)線。信越線の上田から、真北に向かって山裾の町を結ぶローカル電車です。途中の本原という駅で、真田行きと傍陽行きに分かれる…ということを知ったのは、もちろん帰ってから地図帳や時刻表をひっくり返して分かったこと。おそらく真田線の電車と傍陽線の電車が接続をとるため近接したタイミングで本原駅に進入する…というシーンだったと思います。昭和37年(1962年)もしくは38年冬の光景です。今思うと、おあつらえ向きの場所に、おあつらえ向きのタイミングでなぜバスが止まっていたのか見当もつきません。バスが走りながらカメラを向けたのなら、おそらく手ぶれのボケボケ写真になっていたでしょうね。
 この年まで「上田丸子電鉄の古い電車」で済ませてきたんですが、さすがに気になってちょっと調べてみました。といっても手元に何の資料もありませんのでwikiの受け売りです。窓配置を見てみると電車は2台とも左側(下り方向)に荷物室がついている合造の車体に見えます。真田傍陽線にはモハニ4251 - 4254という合造車がいたようです。1927年川崎造船所製。真田傍陽線が上田温泉電気軌道北東線として開業した当初に新造されたデナ100形を前身とする車両。これかなぁ。
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 wikiによればモハニ4251 - 4254は導入当時側窓は一段下降式、荷物室の扉窓は丸窓で、1961年 - 1963年の車体更新時に側窓が二段上昇式に改められ、丸窓は廃止された、とあります。写真では窓まわりは二段になっているので、更新後の姿なのでしょう。
 この真田傍陽線、上田丸子電鉄が上田交通と社名を改めたのち1972年2月に全廃されたということです。
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