モノサク旧線幻視行 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]
総武本線は物井を過ぎると左側に迫る丘陵の裾を回りこみ、やがて田園地帯に躍り出る。下り電車の左側の車窓にも広い田んぼが広がりはじめ、加速を続ける電車が右に大きなカーブを描きだす頃、北の方角に向けて低い築堤らしきものがが伸びていくのに気づくかも知れない。だが時速120キロで駆け抜ける特急列車からその姿を捉えることができるのはほんの一瞬で、車窓から徐々に遠ざかり、田園地帯のとらえどころのない風景の中に消えて行くその「築堤」の上を、かつて蒸気機関車や気動車が走っていたことを想像することなど至難なのだろう。(写真:01)
昭和43年(1968年)3月の総武・成田線、千葉-成田間の電化に伴い消えていった物井-佐倉間の旧線。モノサクデビューの後編は、その旧線の面影をたどりつつ、45年前のモノサク風景を懐かしんでみたいと思います。今回は文体も少しばかり「はぁどぼぃづどだど(内藤陳)」。
◯A地点:亀崎踏切近く 築堤跡
物井と佐倉の間の田園地帯に、南から北へ半島状に突き出した寺崎台地を、新線はトンネルで一気に突き抜ける。しかし旧線は、台地が尽きる北側を大きく回りこんで、佐倉に達している。
総武本線が寺崎トンネルへ向けて大きくカーブを切り始めるところが、新旧の線路の分岐点だ。旧線は直進する形で、ほぼ真北へ伸びている。築堤は1メートルほどだが、周囲の土地より高くなっており、鉄道線路の面影をたっぷり残している。(写真:02)
分岐点にほど近く、小さな橋台の跡があった。いまは涸れているが、用水路があったのだろう。赤さびたガーダーが残っていた。(写真:02)
差し渡し3メートルほど。ガーダーと言うより、ただのH形鋼を渡しただけのように見える。(写真:03)
築堤上に転がっている石ころが、往時のバラストの痕跡に見えるのは気のせいだろうか?(写真:04)
築堤跡を辿っていくと、やがて農家の私道のようになり、庭先に消えていく。(写真:05)
◯B地点:亀崎 農家の裏側
少しばかり回りこむと、再び線路の痕跡らしきものが見つかった。(写真:06)
おそらくはこのあたりで撮った…昭和43年、電化も間近に迫った旧線。キハ26を先頭にした下りのDC。カーブの先はおそらく鹿島川の鉄橋。鉄道電信線)が線路を横切り、農家の庭先に支柱が建てられている。左に見える「ハエたたき」の向こうに、小さく新線の電柱の連なりらしきものが見えている。(写真:07)
◯C地点:物井川橋台跡
B地点から小さく右にカーブを切り、短い築堤を進むと、物井川(鹿島川)の鉄橋。物井側だけだが、煉瓦積みの橋台が残っている。(写真:08)
四街道市の手で、写真入りの解説板が設置されていた。(写真:09)
亀崎側から鉄橋の上に踊りでたC5777が牽引する下りの客レ。(写真:10)
鉄橋を渡るC57+C58の逆重連回送。午後遅く、佐倉の機関区を出区。千葉まで回送して夕刻の下り列車牽引の任にあたる機関車なのだろう。(写真:11)
ところでこの写真には川の流れが写っているが、現在の鹿島川はもっと東の佐倉寄りを流れている。いま橋台跡の右側は草地で、川の痕跡もなければ、佐倉側にあったはずの築堤跡も見当たらない。(写真:12)
恐らく(勝手な推測だが)、旧線の廃止と共に、このあたりで蛇行していた鹿島川の流れを、直線状に付け替えて、築堤の土砂は古い川床を埋め立てるのに用いられたのではないだろうか? 地図を見ると、四街道市と佐倉市の市境は、鹿島川の流れに沿ってあるが、このあたりだけ奇妙に入り組んでいるのが、その辺の事情を物語っていそうだ。
鹿島川を渡る。このあたりまで来ると、新旧線の間隔はかなり広がる。標準系のレンズで12両編成のNEXがほぼ真横からとらえられるほどだ。(写真:13)
◯D地点:寺崎城跡登山口の踏切跡
寺崎台の丘の上から撮影した旧線(写真:14)。逆光で見えづらいが、彼方の山裾に線路が消えかけるあたり、少し線路が盛り上がって見えるのが旧鹿島川の鉄橋。C58の煙がたなびく上側に、土手らしきものが見え、蛇行しているように見える。
亀崎の農家の庭先で線路をまたいだ鉄道電信線は、線路から大きく離れ、川の左岸を通っている。
現在の鹿島川を越えたあたりから(写真:14)の築堤跡が再び始まっていた。(写真:15)
築堤上を走るキハ17系DC(写真:16)。手前のカーブの先は…。
寺崎の台地の北端。築堤の延長線上には民家が建てられ、線路の痕跡は途絶えている。(写真:17)
おそらく、同じ場所で撮ったと思われる写真。無人の踏切があり、右手には鳥居があって、丘の上へと続く急な坂道(写真:18)。
待てよ? 写真:17の右手奥、日陰になっている辺りに鳥居が…。そして丘の上に続く石段…。(写真:19)
密蔵院薬師堂、寺崎城跡登山口という看板が(写真:20)…佐倉城にほど近いこの地に城跡? と興味をそそられましたが、話が大幅に脱線しそうなので今回は省略いたしました…。
かつての「登山道」は地肌の土を削って階段状にしただけのようにみえる。(写真:21)
石段を登ってみる。ふと振り返ると…。(写真:22)
踏切をC58が渡っていた。(写真:23)
◯E地点:寺崎台地北端
この先、交通量の多い幹線道路にぶつかる。(写真:24)
かつて線路は丘の裾に沿って、R400ほどのカーブを描きながら進路を北東から東南東に向け、佐倉駅に向かっていた。(写真:18)の左側に見えているキロポストは「53」、この場所が「53 1/2」。(写真:25)
カーブから顔を出したC5731の牽く下り客レ。線路の犬走りは、近くの住民たちの通り道になっていたのだろう。(写真:26)
現在は…、線路跡は山に飲み込まれたのか、道路に飲み込まれたのか?(写真:27)
カーブを抜けると、佐倉駅手前までは直線区間。D51770の牽く下りの貨物列車。右側に見える未舗装の道が、いま私が辿っている道の原型か…(写真:28)
佐倉を発車したD51641の牽く上り貨物列車。高圧線鉄塔の向こうに佐倉駅がある。腕木式の場内信号機の下に見えるキロポストは「54」。おそらくいまは幹線道路が交わる寺崎交差点のあたりなのだろう。(写真:29)
◯F地点:佐倉駅の西のはずれ
現在の佐倉駅西側までやってきた。寺崎トンネルを抜けてきた総武線は、緩やかに右にカーブしながら駅構内に進入する(写真:30)。
しかし…45年の時を経て見る佐倉の変わり様はどうだ…。(写真:31)
旧線は佐倉駅を出ると逆に右側にカーブしながら寺崎台の北端を目指した。(写真:32)
手前のC58の奥に見えている煉瓦造りの矩形庫と、機関車のたむろしている辺りは、新線開通のだいぶ前に取り壊され、その跡に新線へのアプローチ線路が敷かれたところまでは目撃している。(写真:33)
しかしその奥側には、給水、給炭塔や転車台、そして小規模ながらも扇形庫が残されていたのだが…。
そんな蒸気機関車の拠点だった佐倉駅の痕跡はあとかたもなくなった代わり、かつてはなにもなかった駅の南側は、眼を見張るような街並みに変貌を遂げていた。
この45年間…自分は何か変わったんだろうか…?
まったく…浦島太郎だねぇ。
昭和43年(1968年)3月の総武・成田線、千葉-成田間の電化に伴い消えていった物井-佐倉間の旧線。モノサクデビューの後編は、その旧線の面影をたどりつつ、45年前のモノサク風景を懐かしんでみたいと思います。今回は文体も少しばかり「はぁどぼぃづどだど(内藤陳)」。
◯A地点:亀崎踏切近く 築堤跡
物井と佐倉の間の田園地帯に、南から北へ半島状に突き出した寺崎台地を、新線はトンネルで一気に突き抜ける。しかし旧線は、台地が尽きる北側を大きく回りこんで、佐倉に達している。
総武本線が寺崎トンネルへ向けて大きくカーブを切り始めるところが、新旧の線路の分岐点だ。旧線は直進する形で、ほぼ真北へ伸びている。築堤は1メートルほどだが、周囲の土地より高くなっており、鉄道線路の面影をたっぷり残している。(写真:02)
分岐点にほど近く、小さな橋台の跡があった。いまは涸れているが、用水路があったのだろう。赤さびたガーダーが残っていた。(写真:02)
差し渡し3メートルほど。ガーダーと言うより、ただのH形鋼を渡しただけのように見える。(写真:03)
築堤上に転がっている石ころが、往時のバラストの痕跡に見えるのは気のせいだろうか?(写真:04)
築堤跡を辿っていくと、やがて農家の私道のようになり、庭先に消えていく。(写真:05)
◯B地点:亀崎 農家の裏側
少しばかり回りこむと、再び線路の痕跡らしきものが見つかった。(写真:06)
おそらくはこのあたりで撮った…昭和43年、電化も間近に迫った旧線。キハ26を先頭にした下りのDC。カーブの先はおそらく鹿島川の鉄橋。鉄道電信線)が線路を横切り、農家の庭先に支柱が建てられている。左に見える「ハエたたき」の向こうに、小さく新線の電柱の連なりらしきものが見えている。(写真:07)
◯C地点:物井川橋台跡
B地点から小さく右にカーブを切り、短い築堤を進むと、物井川(鹿島川)の鉄橋。物井側だけだが、煉瓦積みの橋台が残っている。(写真:08)
四街道市の手で、写真入りの解説板が設置されていた。(写真:09)
亀崎側から鉄橋の上に踊りでたC5777が牽引する下りの客レ。(写真:10)
鉄橋を渡るC57+C58の逆重連回送。午後遅く、佐倉の機関区を出区。千葉まで回送して夕刻の下り列車牽引の任にあたる機関車なのだろう。(写真:11)
ところでこの写真には川の流れが写っているが、現在の鹿島川はもっと東の佐倉寄りを流れている。いま橋台跡の右側は草地で、川の痕跡もなければ、佐倉側にあったはずの築堤跡も見当たらない。(写真:12)
恐らく(勝手な推測だが)、旧線の廃止と共に、このあたりで蛇行していた鹿島川の流れを、直線状に付け替えて、築堤の土砂は古い川床を埋め立てるのに用いられたのではないだろうか? 地図を見ると、四街道市と佐倉市の市境は、鹿島川の流れに沿ってあるが、このあたりだけ奇妙に入り組んでいるのが、その辺の事情を物語っていそうだ。
鹿島川を渡る。このあたりまで来ると、新旧線の間隔はかなり広がる。標準系のレンズで12両編成のNEXがほぼ真横からとらえられるほどだ。(写真:13)
◯D地点:寺崎城跡登山口の踏切跡
寺崎台の丘の上から撮影した旧線(写真:14)。逆光で見えづらいが、彼方の山裾に線路が消えかけるあたり、少し線路が盛り上がって見えるのが旧鹿島川の鉄橋。C58の煙がたなびく上側に、土手らしきものが見え、蛇行しているように見える。
亀崎の農家の庭先で線路をまたいだ鉄道電信線は、線路から大きく離れ、川の左岸を通っている。
現在の鹿島川を越えたあたりから(写真:14)の築堤跡が再び始まっていた。(写真:15)
築堤上を走るキハ17系DC(写真:16)。手前のカーブの先は…。
寺崎の台地の北端。築堤の延長線上には民家が建てられ、線路の痕跡は途絶えている。(写真:17)
おそらく、同じ場所で撮ったと思われる写真。無人の踏切があり、右手には鳥居があって、丘の上へと続く急な坂道(写真:18)。
待てよ? 写真:17の右手奥、日陰になっている辺りに鳥居が…。そして丘の上に続く石段…。(写真:19)
密蔵院薬師堂、寺崎城跡登山口という看板が(写真:20)…佐倉城にほど近いこの地に城跡? と興味をそそられましたが、話が大幅に脱線しそうなので今回は省略いたしました…。
かつての「登山道」は地肌の土を削って階段状にしただけのようにみえる。(写真:21)
石段を登ってみる。ふと振り返ると…。(写真:22)
踏切をC58が渡っていた。(写真:23)
◯E地点:寺崎台地北端
この先、交通量の多い幹線道路にぶつかる。(写真:24)
かつて線路は丘の裾に沿って、R400ほどのカーブを描きながら進路を北東から東南東に向け、佐倉駅に向かっていた。(写真:18)の左側に見えているキロポストは「53」、この場所が「53 1/2」。(写真:25)
カーブから顔を出したC5731の牽く下り客レ。線路の犬走りは、近くの住民たちの通り道になっていたのだろう。(写真:26)
現在は…、線路跡は山に飲み込まれたのか、道路に飲み込まれたのか?(写真:27)
カーブを抜けると、佐倉駅手前までは直線区間。D51770の牽く下りの貨物列車。右側に見える未舗装の道が、いま私が辿っている道の原型か…(写真:28)
佐倉を発車したD51641の牽く上り貨物列車。高圧線鉄塔の向こうに佐倉駅がある。腕木式の場内信号機の下に見えるキロポストは「54」。おそらくいまは幹線道路が交わる寺崎交差点のあたりなのだろう。(写真:29)
◯F地点:佐倉駅の西のはずれ
現在の佐倉駅西側までやってきた。寺崎トンネルを抜けてきた総武線は、緩やかに右にカーブしながら駅構内に進入する(写真:30)。
しかし…45年の時を経て見る佐倉の変わり様はどうだ…。(写真:31)
旧線は佐倉駅を出ると逆に右側にカーブしながら寺崎台の北端を目指した。(写真:32)
手前のC58の奥に見えている煉瓦造りの矩形庫と、機関車のたむろしている辺りは、新線開通のだいぶ前に取り壊され、その跡に新線へのアプローチ線路が敷かれたところまでは目撃している。(写真:33)
しかしその奥側には、給水、給炭塔や転車台、そして小規模ながらも扇形庫が残されていたのだが…。
そんな蒸気機関車の拠点だった佐倉駅の痕跡はあとかたもなくなった代わり、かつてはなにもなかった駅の南側は、眼を見張るような街並みに変貌を遂げていた。
この45年間…自分は何か変わったんだろうか…?
まったく…浦島太郎だねぇ。
昔の写真との対比で、今にも列車が走ってきそうな気がしました。
by manamana (2012-01-30 21:43)
若い頃に訪れた場所に行き、思い出を引きだし味合うものも、また楽しいですね。
by シュウチャン (2012-01-30 23:38)
45年前に撮った写真が、こうして対比に使われるなんて、
当時のmaipenrai様は全く考えていなかったでしょうね。
(普通誰も考えませんねw)
でもココまで来ると、昔の写真って本当に財産だなあと感じます。
私はこれから45年後に向けて、色々撮影していきます~
by プント (2012-01-31 00:06)
おはようございます。
manamanaさん
汽車が走らなくなって45年も経つというのに、面影が随所に残っていて嬉しい場所でした。目をつぶって念じると、汽車が走ってきそうな感覚に襲われました。
シュウチャンさん
先日の御ブログの松田駅の写真を拝見して、自分の撮ったものと比較しながら楽しんだりしていました。富士山が綺麗に見える時期に、あのあたりにも行ってみたいですね。
プントさん
昔はおカネがなかったこともあり、撮った写真を大きく引き伸ばすなんてめったに出来ませんでした。スキャンしてPCに取り込むと、いくらでも拡大可能なので、古い写真の隅っこに写っている、当時「見ているんだけど見えていなかった」ものを「発見」することも多いです。撮った時も、そして時を経て見なおしてみても、写真は楽しいですね。
ほりけんさん
xml_xslさん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-01-31 10:00)
45年ぶり 「再」 モノサクデビューでしたか(失礼しました。)
「はぁどぼぃづど」というより、叙情詩のようにノーブルな文体です。タイトルも素晴らしいですね。ピッタリだし、旅行会社がコピーに使いそう!
でも、森山周一郎さん(オヤジ世代は刑事コジャック!娘世代は紅の豚!)アテて読んだらステキです!ハマリましたよ~。
「この45年・・・俺は何が変わったんだ・・・?まったく・・・浦島太郎だねぇ。」
by hanamura (2012-01-31 13:49)
いやいや 素晴らしき 45年探訪記
こんな形で比較検証の紹介記事見たことありません
なんで今まで みなさん出してくれないのか思っていました
自分が歩いた てくてく撮影 そうそうこここうだった と思われる
ばかりです。山登り ここ上まで行くと そう 富士山見られるのです
冬晴れの日 限定ですが
maipenrai様に出会う機会が増えました モノサクです
写真のC57C58 重連単機を私も撮影しています
面白い物が過去には見られましたね
以前の記事で 蘇我ー千葉でもあったのですから
しかし 西千葉は 単機のみでした。
by みやちゅう (2012-01-31 19:42)
hanamuraさん
森山周一郎さん、試してみましたがうまくいきません(滑舌が悪すぎるw)。「はぁどぼぃづど」な文体には憧れるんですが、すぐに「ナンチャって」になっちゃいます(笑)。
みやちゅうさん
富士山が見えるんですか? もうちょっと頑張って上まで登れば良かった(天気は申し分なかったので…)。今思うと電化前の物井-佐倉は東京に近い割に地味な場所でしたし、車両も…。雑誌に取り上げられることもなく、案外撮られている方も多くないのではないかと…。お写真、ゼヒ拝見したいですね。
斎藤 ☆さん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-01-31 21:44)
こんばんは
何度か訪れたモノサクでしたが
こうして旧線のポイント、そして当時の写真を並べて拝見すると
とても興味深いものがありました
実際に現地へ行くと新線と並行するあたりは
昔はここを走っていたんだなというのが分かりますよね!
あ~、また行きたくなりました(笑)
by gardenwalker (2012-01-31 23:16)
おはようございます。
gardenwalkerさん
記憶はアテにならないもので、「東西方向に走っているから午前中は下りに対して順光」なんて思い込んでたら、実は南北方向に近くて、もろ逆光だったとか…そんなドタバタはありましたが、やっぱりイイですね~、モノサク。既にまた行きたくなってます(笑)。
素人写真さん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-02-01 09:51)
亀崎踏切を渡って、サイド寄りから流し撮りするとき、
ここは妙に足場のよい農道だな・・・と思っていたところが、
なんと旧線の跡だったとは・・・無知で恥ずかしいかぎりです。
今度訪れるときには、少し周囲を散策してみたいと思います。
by あおたけ (2012-02-01 19:17)
あおたけさん
>足場のよい農道
三脚立てた撮り鉄100人くらいは余裕なキャパですね(笑)。これから日が長くなると、午後遅くには旧線側が順光になりそう…ちょっと楽しみです。
by maipenrai (2012-02-02 20:48)
今日は。
佐倉方面の廃線跡ですが、写真24の白い建物の裏手でしょう。
2000年ぐらいに山裾の法面の補強が行われたので、その頃は道路からでも廃線跡に気付けました。
by 伊 謄 (2012-02-04 08:55)