セーシュンの新小岩機関区4~C58+おまけ編 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 過去3回に渡った新小岩機関区ネタ、今回で最終回です。
 昭和40年前後、新小岩機関区に配置されていた蒸気機関車は8620、C57、D51、そして今回の主役C58の4形式。今回の主役・C58は、国鉄で唯一の1C1、いわゆるプレーリー型の軸配置を持った機関車で、大正期に造られたC型の8620の速度性能、D型の9600の牽引力、双方の利点を一機種で実現しようというコンセプトで製造された機関車で、よくいえば万能機、一方で趣味的に言えば無個性な存在と言えるのではないでしょうか?
 端的に言えば、ハチロクほどに明日にも消えてしまいそうな危機感はなく、C57ほどの華もなく、D51ほどの迫力もない…。地味~ィに与えられた仕業を黙々とこなしていたのが当時のC58に対するいつわりなき印象です…。

(1)新小岩機関区の検修線のC58183号。前灯はシールドビームだし、ホント、これといった個性を主張するものは感じられませんね。
01_3909C58183.jpg


 が、このC58、実はけっこうな役者っぷりを見せた過去があったりするんです。今回はそんな千葉のC58にまつわるお話と、併せて昭和40年前後に新小岩で見かけた珍客の画像をごらんいただきます。

 新小岩機関区に配置されていたC58は、資料によれば1961年から65年までの4年間、9両と変わらず、ナンバーも同じ機関車が在籍し続けています。一方同時期、佐倉機関区には23両のC58が配置され、こちらも移動はなかった…と。

 しかし、新小岩と佐倉の両区の間では、頻繁に機関車の貸借が行われていたようなのです。

(2)新小岩機関区の、検修線に陣取るC58286。資料では同機は新小岩の配置になったことはなく、ずっと佐倉機関区の配置なのですが、区名札は「岩」のようにも見える…。
02_4011C58286.jpg


(3)同じC58286です。こちらは当時の新小岩区で、他区のカマがよく停まっていた位置での撮影。区名札は「佐」と確認できます。
03_4011C58286.jpg


(4)こちらは新小岩区のプロパー、C58165号、一時期、佐倉区に転属していたこともありましたが、蒸機全廃の前年、69年まで新小岩区に在籍していました。
04_4005C58165.jpg


(5)C58291は、1960年の千葉機関区廃止に伴い新小岩にやってきた機関車。やはり69年まで在籍しています。
05_4011C58291.jpg


 新小岩機関区のC58の運用は、房総全域に渡っていましたが、実のところ佐倉区のC58との棲み分けがよく分からないのです。
 一例ですが、昭和38年10月改正の新小岩区乙組35運用を見てみると、朝7時に新小岩操車場を出発する貨381レを牽いて、市川、下総中山、船橋、幕張、稲毛、西千葉、千葉と荷扱いをしながら、5時間半(!)かけて昼の12時半頃佐倉に到着、しばし休憩の後、逆単機重連で千葉へ回送、千葉から下りの総武線客327レを牽いて銚子に20時前に到着、一時間足らずの折り返し仕業は、貨378レで、これは直行(鮮魚貨物でしょうか)で新小岩に23時30分頃帰着…という具合。貨物、客レ、貨物と変幻自在な運用は、ダイヤ改正ごとに佐倉区、新小岩区双方のC58が適宜割り当てられていたはずで、機関区ごとの運用範囲を特定するのはあまり意味が無いかもしれません。

(6)新小岩操車場、上り出発線。逆向きのC58はいまにも小名木川に向けて出発しそう…にも見えるし、ただ操車場の入換をしているだけのようにも見える…。
06_3909_002.jpg


(7)上り貨物から切り離され、機関区へ向かうC58308。この機関車は佐倉区所属。
07_4007C58308.jpg


 さてさて、当時新小岩区に所属していたC58は、まだまだいるのですが、自区で撮った写真が見つかりません。巡り合わせなのか、はたまた私が「ケッ、C58なんて…」とシャッターを押さなかったのか? 
 ともあれ、記録上、新小岩機関区に所属していたはずのC58の写真を、できるだけ並べてみましょう。

(7)C58184。物井-佐倉間。
08_C58184_011.jpg


(8)C58229。佐倉-酒々井間
10C58229_023.jpg


(9)C58261。物井-佐倉間。
11C58261_014.jpg


(10)C58217。稲毛-西千葉間
09C58217_010.jpg


 このC58217は、1960年に廃止になった千葉機関区からC57とともに新小岩機関区に移ってきた機関車です。実はこのカマ、新製まもなく配置された千葉機関区時代、昭和16年に制作された「指導物語」(東宝。監督・熊谷久虎)という映画に準主役級で出演した機関車なのです。

 それでは、映画の主役は…この機関車です。
(11)C58218。小岩-市川間
C58218臨快かもめ.jpg


 「指導物語」の舞台は千葉機関区。千葉と津田沼にあった鉄道連隊の兵士を、指導教育する老機関士の物語で公開は、太平洋戦争の開戦を2ヶ月後に控えた昭和16年10月。この映画に登場…というより、丸山定夫の老機関士、藤田進の指導を受ける兵士を押しのけ、主役を張っているのがC58218です。
 C58217/218の製造年は昭和15年ですから、映画の撮影当時は製造間もないピカピカの新型蒸気機関車。戦前の房総の山河を疾駆するC58218や、機関区の情景がふんだんに映し出されますが、なんといっても最大の見せ場は、佐倉から総武、成田線が並走する区間で、2台の機関車が並走するシーンでしょう。他にも機関区脇を走る省電や、機関区の隅にたたずむガソリン動車…DVDで一度じっくり見てみたいものですが、DVD化はされていないんですね。

YouTubeで見られるダイジェストはこちら
http://www.youtube.com/watch?v=5ug5t9WWGsA

YouTubeではVHSビデオから起こしたビデオクリップで、全巻見ることができるようです…。
 今は亡き千葉機関区と、現在の千葉駅との位置関係はこちらで(私の旧記事で恐縮です)
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-04-26

 まぁ、写真を撮っていた頃は映画のタイトル程度は知っていましたが…、なにせまだビデオもない時代。映画を観ることなど叶わず、身近にいた新小岩のC58の中に、映画の主役を張った華麗な過去を持ったヤツがいることなどまったく知る由もなかった私なのでした。

 ちなみにC58217は旭市で静態保存されているようですが…。

 さて、駆け足になりますが、昭和40年前後に新小岩で見かけた珍しい(?)車両たちをご紹介して、本シリーズの締めくくりにしたいと思います。

(12)写真(4)(5)にも写っていますが、当時の新小岩でヌシのような存在感を放っていたのがこの客車。木造客車を流用した救援車で、形式はナエ27000…でよかったかな?(詳細ご存知の方、何卒ご教示いただければ幸いです)。
 さすがに国鉄線上を走る木造車はなくなっていた当時ですが、現場の片隅にはこんな車両も見ることがができました。
12_3909ナエ27000.jpg


(13)その隣に停まっていたタンク車。拡大してナンバーを読み取ると、おお、ミム104。今年の夏に、Cedarさんの記事にあった「水運車」です。
http://cedarben.blog.so-net.ne.jp/2011-07-25
 私はこの記事に「見るのは初めて」なんてコメントしてますが、見てるじゃん! ただ観察力、注意力が鈍いだけなのだよ。
12-B3909ミム104.jpg


(14)DD13…は珍客ではないなぁ。千葉気動車区に5両配置されていた二次形DD13は、常時2両程度が新小岩操車場や新小岩工場の入換に使われていました。
13_4005DD1389.jpg


(15)新小岩操車場と常磐線・金町を結ぶ貨物線、新金線が電化されたのは昭和39年9月。撮影したのは、おそらくその直前だろうと思うんですが、、2両のEF80がなぜか架線が張られていない新小岩区の検修線に止まっています。
14_3909EF80.jpg


(16)電機といえば、こんな珍客が…。EF58が新小岩機関区の給炭台脇に止まっていました。EF58は新金線電化前から、新宿方面~御茶ノ水~総武線ルートで正月の成田臨を牽いていたので、その関係かもしれません。
15_3909EF5854.jpg


(17)操車場の片隅にポツンと一両停まっていたキハ28。キハ28なんて、当時の千葉では珍しくありませんが、所属表記が名タミ。おそらく房総夏臨の応援に駆り出された気動車でしょうか。
16_4007キハ28.jpg


(18)そういえば、新小岩ではこんな気動車も撮ってます。クリーム色の車体に赤帯、準急塗装のキハ26。オール、キハ26(55?)の編成は、房総の定期列車ではなく、なんらかの臨時列車のよう。千葉の準急色は、わりあい早い時期になくなっていると記憶していますが、どういう素性の列車だったのでしょう。いまもって謎なのであります。
17キハ26準急色.jpg


(19)やはり操車場にポツンと停まっていた架線試験車クモヤ93000。言わずと知れた当時の狭軌鉄道の世界最高速度記録ホルダー。貨車(車掌車)と連結して、なにをしようとしていたのでしょうか?
18_3909クモヤ93000.jpg


 こんな具合に、本命の蒸気機関車だけでなく、様々な種類の車両を見ることができた新小岩。中学生の私には、まさにワンダーランドでありました。いまでも総武線の電車に乗って新小岩を通るたび、すっかり寂しくなった北側のヤードを眺めながら、当時の思い出に浸ってしまう私なのです。
nice!(13)  コメント(14)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 13

コメント 14

manamana

この頃の写真をたくさん撮ることが出来てうらやましいです。
蒸気機関車が当たり前のように走っているのが、
なんだか新鮮です。
by manamana (2011-12-28 07:38) 

hanamura

SLセーシュン・シリーズ楽しみになっています。
すでに休暇中なので、朝からTubeで「指導物語」鑑賞中!
機関操縦シーンと、見覚え有る房総の風景が実にイイですね。
by hanamura (2011-12-28 07:55) 

みやちゅう

青春 新小岩 シリーズ楽しませていただいています。
C58はありふれた形式なのか人気はありませんでしたね
千葉のような線区には都合が良かったのでしょうか
首都圏では遅くまでで見られました
C58 217・218の連番の映画ビデオを買い損ねましたが
今は配信画像で皆が楽しめます 嘘のような並走シーン
今では総武普通電車がNEXなどと短区間並走しています
謎 ですが成東の伊藤左千夫記念館 入り口の煙室扉が
ポツンと措かれていますが 番号がC58 217です
旭にある (私は見ていませんが)C58 217は?
佐倉からの逆重単は写真が1枚だけ撮ったことがあります。
新小岩の車両シリーズの続編期待してしまいます。
貴重な写真 ありがとう ございました。





by みやちゅう (2011-12-28 18:31) 

TAC

ずいぶん昔、高校3年生のころ夏休み房総勝浦に行くのに新宿始発の気動車に乗った覚えがあります。房総東線とか言ってなかったかなぁ。走り出すときものすごいエンジン音がするのに列車はなかなか加速しなくて、だいじょうぶなのかなと心配したのを強烈に覚えています。あれって何の列車なのかな。
by TAC (2011-12-28 21:12) 

nexus6

うわぁ~!!  これまたお宝画像でありますね
あれは昭和47・48年でしたか、某日級友たちと津田沼電車区へ見学に行った際、偶然にもクモヤ93000がいたんです。
その時点では記録保持車だなんてことも判らず、その顔をオリンパスペンでなんとな~く撮っただけ なのでありましたが、その後この電車の記録を知って後付の感動を味わったコトがありましたっけ。
一つ目のDD13とかも大スキなスタイルでありまして、あぁ涎が...
by nexus6 (2011-12-28 21:24) 

maipenrai

manamanaさん
 私は manamanaさんの若さが羨ましい(笑)。いや、マジで…。ご子息とお散歩に出かける記事を拝見して、密かに「いいなぁ~」なんて思っているのです。

hanamuraさん
 YouTubeで映画一本見られるのだからほんとにびっくりです。ただ、やっぱり途中で大きな画面で見たくなっちゃいます。房総の風景は、戦前も、私の知ってる昭和30年代も、あんまり変わっていない気がしますね。

みやちゅうさん
 伊藤左千夫は成東の産なんですね。ご承知のように、代表作「野菊の墓」は舞台が松戸市矢切と言われていて、その碑が北総線の上流側のお寺の境内にあったりします。
 佐倉の並走区間、というか単線並列区間はある意味不思議な存在ですね。成田・総武線の分岐点辺りに、「東佐倉信号場」でも設けたら、効率的な運転が出来そう…なんて昔から思っていました。ここでカーチェイスならぬSLチェイスをやっちゃおう…なんて、映画屋さんは昔も今も素敵なことを考えてくれます。たとえ戦雲急を告げる時代であっても、陸軍省後援なんてクレジットが入っていても、スペクタクルこそ映画の生命線って思想…大いに共感できるのであります。

TACさん
 ホント、昔のDCの加速は悪かった(今はそんなことありませんが)ですね。特に千葉は、基本オール1エンジンなので、加速のトロさは際立っていたように思います。数年前、某泰国で乗ったDCなぞ、4両編成で2エンジン、すなわちDTTD編成で、その加速たるや…。

nexus6さん
 昭和47・48年てぇと、津田沼電車区はもう101系に全面的に置き換わっていた頃でしょうか? 千ツヌの標記、懐かしいなぁ。初めて千ラシという標記を見た時は、なんじゃこりゃ、と思ったものですが、それもいまは昔、いまの総武緩行線は、全車八ミツになってしまい、なんだかなぁ…と思っていますのです。

ハマコウさん
ほりけんさん
よしくんさん
ひもブレーキさん
フジトモさん
xml_xslさん
 niceありがとうございます。


by maipenrai (2011-12-28 22:29) 

たっちゃん

いつも楽しく拝見しております。
総武線沿線に住んでいますので懐かしく思います。といっても昭和40年
代は小学生でしたが。

ナエですが以下の経歴の様です。

(ホハニ27161) (1924)
 ↓1924改番
(ナハニ27161)
 ↓1928改番
(ホハニ25544千(1953))
 ↓1953-3長野工場改造
(ナヤ26935千)
 ↓1953-6改番
27011千シワ(1954-55)→千キウ(1958-64)   1964廃車

ミムもすばらしいですね。SL雑誌に末期の佐倉のSLと連結されていた?
のしか千葉局のは知りません。
当初<青だったという佐倉のヤ500号(ミム改造)程度しか知りませんし、
元番も不明のままです。

by たっちゃん (2011-12-28 23:16) 

maipenrai

たっちゃんさん
 丁寧なご教示、ありがとうございます。ようやく長年の謎(?)が解けました。
 ナエ27011は1964年の廃車…ということは、おそらく廃車直前の写真だと思います。この場所(信号扱所の裏)には、常時救援車が留置されていましたが、気がつくと木造車がいなくなって、ダブルルーフのスエ30(31?)に置き換わっていました。
 あの頃はどこの現場でも、必ず救援車がいましたね。木造客車の成れの果てだったり、オハ31系改造の17メートルダブルルーフ車だったり、戦災客車の改造だったり…。そんなに「救援」を必要とする事態があったのかは疑問ですが…。

しまりすさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-12-29 10:36) 

伊 騰

新小岩のC58で、会っていたのは291だけのようでした。
by 伊 騰 (2011-12-30 20:53) 

maipenrai

伊 騰さん
 千葉のC58は、本文でも触れていますがどれが佐倉の所属で、どれが新小岩の所属…っていうのが曖昧な感じです。特に晩年は例の「検査期間が残っているカマを融通しあう」配転が盛んに行われたのではないでしょうか?
 291号、なぜか私とは相性がよかったらしく、わりとたくさん写真が残っています。

湘南ライナーさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-12-30 22:12) 

D6025

千葉は全国でも屈指のC58が活躍した豊庫、その活躍ぶりが十分に伝わる多数の貴重なC58の写真を公開して頂きありがとう御座います。活躍にも関わらずお別れ列車の先頭に立つ事無く静かに去って行きました。仰るとおり地味に与えられた仕事を着実にこなす、C58らしい終焉だったかもしれません。
by D6025 (2011-12-31 16:57) 

maipenrai

D6025さん
 北海道から四国、九州まで、全国に配置されていた400両あまりのうち、最盛期の昭和41年には、佐倉、新小岩併せて34両が集結していたのですから、まさに千葉管理局は「シゴハチ王国」といえそうですね。千葉から蒸機が消えた昭和45年に、新小岩に一両だけC58が残っていたらしいのですが、その姿を思い出せません。
 2月の10日から3日間、内房線開通100周年ということで、千葉みなと-木更津間にSL列車が走り、C6120が牽くらしいのです。それも悪くないんですが、内房線なら磐越のC57か、秩鉄のC58を走らせてみたいなぁ、と思うのは私だけでしょうか。

あおたけさん
gardenwalkerさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-12-31 17:27) 

D6025

手元の昭和45年3月31日現在の国鉄車両配置表によりますと、C58217が1両だけ新小岩配置で記載されています。保存もされていますので此れでは有りませんか?御参考まで他の配置は
新小岩:
D5121・448・507・532/641/770/806
C5759/105
で佐倉区は蒸機の記載無です。

by D6025 (2011-12-31 20:11) 

maipenrai

D6025さん
 やはり最後に残ったのは217号機でしたか。でしたら千葉のC58で唯一(?)保存されているのも頷けますね。
 ご教示ありがとうございました。良いお年をお迎えください。
by maipenrai (2011-12-31 20:53) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。