昭和39年10月1日「ひかり1号」 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]
気がつけば、更新ペースは週一であっぷあっぷ。看板通りの「ものぐさ」っぷりが、いよいよ本領を発揮しつつある当ブログ。
いや、最近sonetさんちが重くて、表示を待ってられないんだよね~なんてのは言い訳に過ぎませんね。少しは頑張らなくちゃ…。
さて今日は10月1日…といっても記事を書き始めた時点の話で、アップし終えた時にはすでに10月2日。どうもしまらないなぁ…このごろ、文章書くのがしんどくて…。
10月1日といえば、国鉄のダイヤ改正…が通り相場だった60年代、サンロクトウ、サンキュウトウ、ヨンニイトウ、ヨンサントウ…大きな国鉄のダイヤ改正は、たいがい10月1日に行われていたんですね。
それぞれの年代で、いろんな思い出がありますが、今回はサンキュウトウこと昭和39年10月1日の国鉄のダイヤ大改正のお話…。この日、「夢の超特急」こと東海道新幹線が営業を開始したのです。
子供の頃ずっと「夢の超特急」として憧れていた新幹線。その開業のの先陣を切ったのは、10月1日、東京駅を朝6時に発つ「ひかり1号」新大阪行きでした。
実は私、この列車に乗っているんであります。
嘘だろ!? って…いや、証拠物件はなんにも残っていないんです…写真は撮っているんですが、ネガの保存状態は悪く、ブログネタにするにもためらうような代物。キップや記念乗車券のたぐいも手元に残ってはおらず…。だもんで、どうしたもんか散々悩んだ末、やっぱり記事にしちゃいましょうか…。
そもそもは…、家族旅行の途中に鴨宮のモデル線区を見学したり、品川にできた車両基地に潜り込んだり、全線試運転の写真を撮りに新横浜の丘に登ったり…当時中学2年生の私、「夢の超特急」に夢中だったようです。開業が近づくに連れ、「新幹線に乗ってみたい」という気持ちは募るんですが、在来線の特急にすら、それまで乗ったことはなく、新幹線なんて夢のまた夢…。
いまとなっては、どんな話の顛末か、さっぱり思い出せないのですが、父に「新幹線に乗りたいんだけど…」みたいな話をしたんでしょう。「じゃぁ行こうか…」ということになって…。経済的にさして豊かではなかった我が家で、父はカネもなかったはずなのに…いち早くマイカーを手に入れたり…新しもの好きだったんでしょうね。叔母…父の妹が、旦那さんの転勤に伴い、西宮に住んでいて、その叔母を尋ねる…というのも父の大義名分だったような気がします。
開業する新幹線で、大阪の叔母を尋ねる…というアウトラインが出来上がって、どうせなら10月1日の開業日、出来れば一番列車の「ひかり1号」で行きたい…そう思うのが鉄ガキの本性。事実かどうかは知りませんが、国鉄の駅より交通公社の窓口の方が指定などのチケットは取りやすい…当時伝えられていたセオリーに従い、亀戸駅前にあった交通公社に日参して、めでたく一番列車のチケットをゲットしたのでした。
思えば当時、新聞などでひかり1号の「一号車1番A席」をどんな人がゲットするか…なんて盛り上がっていたような…。もちろん、そんなだいそれたことは考えていたわけでなく、手に入ったのは3号車だったか、4号車だったか…真ん中へんの普通車2列並びの席を二人分(私のぶんと父のぶん)。
鉄友のA君は、やはり「ひかり1号」の席を確保、別の友人2人は「こだま101号」を…と、同じ中学の鉄っ気のある中坊たち、すっかり新幹線フィーバーに浮かされていたようです。
迎えた10月1日、朝6時前というのに東京駅新幹線ホームは開業式で大混雑…だったはずなのですが、乗り遅れるわけに行かずに写真も撮れず、席に着いてしまえばそんな窓外の喧騒はまったく感じられず、初めて入った0系新幹線の客室も、153系などの新系列電車と較べてびっくりするほど豪華…ってわけでもないのが意外。アルミのパーツはゴールドにメッキされていたけど、それもなんだかアルマイトみたいで…そんなことをおもいつつ、気がつけば文字通り音もなく、東京駅を後にした「ひかり1号」なのでした。
開業時の新幹線ダイヤは1時間に1本ずつの「ひかり」と「こだま」が基本。「ひかり」は新大阪まで4時間運転で、在来線の特急に較べれば2時間半も短縮しているのですが、2時間半運転の現在と比較すれば、実に余裕のあるダイヤです。ビュッフェに備え付けられていた速度計でも、当時の最高速度210キロを表示することはほとんどなかったような…。
東京を出発して1時間ほど、富士山が顔を見せてくれました。
このときのネガを見ると、写真をあんまり撮っていないんです。それには理由があって…実は東京駅を出発して間もなく、私と同乗のAくんは妙齢のお姉さんにナンパ…もとい、拉致されてしまったのでした。
その怪しいお姉さんとは…誰でも名前をご存知の、某大出版社の編集者で、なんでも新幹線の開業企画の「ソノシート」つきの書籍の取材で乗車していて、私とA君の会話の音声を録りたいらしい。
「ソノシート」、ご記憶でしょうか? ペラッペラのレコード、というか、ハードなレコードと違い、ある程度折り曲げの耐久性があって、雑誌などの間に付録として挟む事ができる…いまでいうDVDつき雑誌の元祖みたいなものが、当時流行っていたのであります。
で、中学の制服を着て乗車していた(どうも当時、どこに行くんでも制服着用だったみたいです…私)私とA君に目をつけ、「普通の会話で構わないんで録らせてね」とのオファー。
以後、私たちは並びの席を取っていた父を置き去りに、12両編成のひかり号をあちこち連れ回されながら、即席の子供声優さんとなってしまったのでありました。
まぁ、いいこともありまして…。お姉さんと同行の年配編集者さんが交渉してくれたのか、浜松を過ぎて上り「ひかり2号」との離合が近づくと、後部運転台に入れてもらってこんなすれ違いシーンを撮ることができたのであります。
A君は名古屋で下車して、当時C51が残っていた亀山機関区へ向かう予定(中学生のくせにシブ過ぎるでしょ)。
名古屋に近づくと、窓外をかすめる赤い電車。
「あっ、赤い電車だ!(私)」
「名鉄パノラマカーだ!(A君)」
なぁんてセリフを年配編集者さんに入れられて、しっかり仕事をこなしたのでありました。ちなみにギャラはビュッフェでいただいたレモンティー…。
名古屋到着。上り線を出発していくのは2番列車の「ひかり4号」でしょうか。在来線ホームには関西線のキハ35が見えます。
同じく名古屋で見かけたC57。ボイラの上に重油タンクが乗っかってますね。
A君が下車してしまい、ひとり取り残された私がK談社の編集さんたちから解放されたのは、京都駅到着直前でした。ここでようやく自席にもどり、自由に写真を撮れるようになったのですが…置き去りにされていた父の不機嫌なこと…。
京都駅手前の塩小路の陸橋を渡る京都市電。
拡大してみると、市電の中から好奇の目で新幹線を見ているおかあさんと子供の姿が見えました。
京都駅を出発。すれ違う近鉄京都線の小型の2ドアの電車は、奈良電からの移籍車でしょうか。
はるか向こうに見える向日町の車両基地。
鳥飼の新幹線基地(大阪運転所)。0系新幹線が一編成だけポツンと留まっていました。
新幹線を堪能したんだか、しなかったんだか、よくわからないうちに電車は新大阪駅に到着しました。出迎えの報道陣が凄いことになってます。
このあと、父と私は国鉄甲子園口駅近くに住む叔母の家に向かったのですが、どうやって向かったのか、はっきりしないんです。
阪神電車に乗ったおぼろげな記憶はあるのですが…ネガの続きにあったのは、これ、阪神電車の南側を走っていた阪神国道線の「金魚鉢」ですよね。背景はどうみても阪神甲子園球場。阪神電車よりずっと北側にあったはずの、叔母の家とは反対方向なんだけど…。
これも阪神国道線、バスの中から撮っているような写真です。いったいどこをどう通っていったのか…。
叔母の家に着いたのはお昼近く。ちょうどテレビのニュースで新幹線「ひかり1号」の新大阪到着シーンをやっていて、一瞬父と私が下車するシーンを叔母が見つけ、「映ってるわよ!」と妙に興奮していたのを覚えています。
このあと…私たちは17時新大阪発の「ひかり」で日帰りで東京へ戻るのですが、それまでの間、私は叔母の家からほど近い東海道線や、阪急の線路際をうろつきながら、初めての(今のところ最後の)関西の電車撮影を楽しんだのでした…が、その件はいずれまた。
ちなみに…件の「ソノシート本」はしばらくして我が家に送られてきました。びっくりしたのはメインのナレーターをあの手塚治虫大先生がつとめられていたこと! 渋い手塚先生のナレーションとイレコに、滑舌の悪い(今でもそう)私の声が入るソノシート、なんだかとってもこっ恥ずかしく、一回聞いただけで…さぁ、どこへ行っちゃったんだろうか…?
いや、最近sonetさんちが重くて、表示を待ってられないんだよね~なんてのは言い訳に過ぎませんね。少しは頑張らなくちゃ…。
さて今日は10月1日…といっても記事を書き始めた時点の話で、アップし終えた時にはすでに10月2日。どうもしまらないなぁ…このごろ、文章書くのがしんどくて…。
10月1日といえば、国鉄のダイヤ改正…が通り相場だった60年代、サンロクトウ、サンキュウトウ、ヨンニイトウ、ヨンサントウ…大きな国鉄のダイヤ改正は、たいがい10月1日に行われていたんですね。
それぞれの年代で、いろんな思い出がありますが、今回はサンキュウトウこと昭和39年10月1日の国鉄のダイヤ大改正のお話…。この日、「夢の超特急」こと東海道新幹線が営業を開始したのです。
子供の頃ずっと「夢の超特急」として憧れていた新幹線。その開業のの先陣を切ったのは、10月1日、東京駅を朝6時に発つ「ひかり1号」新大阪行きでした。
実は私、この列車に乗っているんであります。
嘘だろ!? って…いや、証拠物件はなんにも残っていないんです…写真は撮っているんですが、ネガの保存状態は悪く、ブログネタにするにもためらうような代物。キップや記念乗車券のたぐいも手元に残ってはおらず…。だもんで、どうしたもんか散々悩んだ末、やっぱり記事にしちゃいましょうか…。
そもそもは…、家族旅行の途中に鴨宮のモデル線区を見学したり、品川にできた車両基地に潜り込んだり、全線試運転の写真を撮りに新横浜の丘に登ったり…当時中学2年生の私、「夢の超特急」に夢中だったようです。開業が近づくに連れ、「新幹線に乗ってみたい」という気持ちは募るんですが、在来線の特急にすら、それまで乗ったことはなく、新幹線なんて夢のまた夢…。
いまとなっては、どんな話の顛末か、さっぱり思い出せないのですが、父に「新幹線に乗りたいんだけど…」みたいな話をしたんでしょう。「じゃぁ行こうか…」ということになって…。経済的にさして豊かではなかった我が家で、父はカネもなかったはずなのに…いち早くマイカーを手に入れたり…新しもの好きだったんでしょうね。叔母…父の妹が、旦那さんの転勤に伴い、西宮に住んでいて、その叔母を尋ねる…というのも父の大義名分だったような気がします。
開業する新幹線で、大阪の叔母を尋ねる…というアウトラインが出来上がって、どうせなら10月1日の開業日、出来れば一番列車の「ひかり1号」で行きたい…そう思うのが鉄ガキの本性。事実かどうかは知りませんが、国鉄の駅より交通公社の窓口の方が指定などのチケットは取りやすい…当時伝えられていたセオリーに従い、亀戸駅前にあった交通公社に日参して、めでたく一番列車のチケットをゲットしたのでした。
思えば当時、新聞などでひかり1号の「一号車1番A席」をどんな人がゲットするか…なんて盛り上がっていたような…。もちろん、そんなだいそれたことは考えていたわけでなく、手に入ったのは3号車だったか、4号車だったか…真ん中へんの普通車2列並びの席を二人分(私のぶんと父のぶん)。
鉄友のA君は、やはり「ひかり1号」の席を確保、別の友人2人は「こだま101号」を…と、同じ中学の鉄っ気のある中坊たち、すっかり新幹線フィーバーに浮かされていたようです。
迎えた10月1日、朝6時前というのに東京駅新幹線ホームは開業式で大混雑…だったはずなのですが、乗り遅れるわけに行かずに写真も撮れず、席に着いてしまえばそんな窓外の喧騒はまったく感じられず、初めて入った0系新幹線の客室も、153系などの新系列電車と較べてびっくりするほど豪華…ってわけでもないのが意外。アルミのパーツはゴールドにメッキされていたけど、それもなんだかアルマイトみたいで…そんなことをおもいつつ、気がつけば文字通り音もなく、東京駅を後にした「ひかり1号」なのでした。
開業時の新幹線ダイヤは1時間に1本ずつの「ひかり」と「こだま」が基本。「ひかり」は新大阪まで4時間運転で、在来線の特急に較べれば2時間半も短縮しているのですが、2時間半運転の現在と比較すれば、実に余裕のあるダイヤです。ビュッフェに備え付けられていた速度計でも、当時の最高速度210キロを表示することはほとんどなかったような…。
東京を出発して1時間ほど、富士山が顔を見せてくれました。
このときのネガを見ると、写真をあんまり撮っていないんです。それには理由があって…実は東京駅を出発して間もなく、私と同乗のAくんは妙齢のお姉さんにナンパ…もとい、拉致されてしまったのでした。
その怪しいお姉さんとは…誰でも名前をご存知の、某大出版社の編集者で、なんでも新幹線の開業企画の「ソノシート」つきの書籍の取材で乗車していて、私とA君の会話の音声を録りたいらしい。
「ソノシート」、ご記憶でしょうか? ペラッペラのレコード、というか、ハードなレコードと違い、ある程度折り曲げの耐久性があって、雑誌などの間に付録として挟む事ができる…いまでいうDVDつき雑誌の元祖みたいなものが、当時流行っていたのであります。
で、中学の制服を着て乗車していた(どうも当時、どこに行くんでも制服着用だったみたいです…私)私とA君に目をつけ、「普通の会話で構わないんで録らせてね」とのオファー。
以後、私たちは並びの席を取っていた父を置き去りに、12両編成のひかり号をあちこち連れ回されながら、即席の子供声優さんとなってしまったのでありました。
まぁ、いいこともありまして…。お姉さんと同行の年配編集者さんが交渉してくれたのか、浜松を過ぎて上り「ひかり2号」との離合が近づくと、後部運転台に入れてもらってこんなすれ違いシーンを撮ることができたのであります。
A君は名古屋で下車して、当時C51が残っていた亀山機関区へ向かう予定(中学生のくせにシブ過ぎるでしょ)。
名古屋に近づくと、窓外をかすめる赤い電車。
「あっ、赤い電車だ!(私)」
「名鉄パノラマカーだ!(A君)」
なぁんてセリフを年配編集者さんに入れられて、しっかり仕事をこなしたのでありました。ちなみにギャラはビュッフェでいただいたレモンティー…。
名古屋到着。上り線を出発していくのは2番列車の「ひかり4号」でしょうか。在来線ホームには関西線のキハ35が見えます。
同じく名古屋で見かけたC57。ボイラの上に重油タンクが乗っかってますね。
A君が下車してしまい、ひとり取り残された私がK談社の編集さんたちから解放されたのは、京都駅到着直前でした。ここでようやく自席にもどり、自由に写真を撮れるようになったのですが…置き去りにされていた父の不機嫌なこと…。
京都駅手前の塩小路の陸橋を渡る京都市電。
拡大してみると、市電の中から好奇の目で新幹線を見ているおかあさんと子供の姿が見えました。
京都駅を出発。すれ違う近鉄京都線の小型の2ドアの電車は、奈良電からの移籍車でしょうか。
はるか向こうに見える向日町の車両基地。
鳥飼の新幹線基地(大阪運転所)。0系新幹線が一編成だけポツンと留まっていました。
新幹線を堪能したんだか、しなかったんだか、よくわからないうちに電車は新大阪駅に到着しました。出迎えの報道陣が凄いことになってます。
このあと、父と私は国鉄甲子園口駅近くに住む叔母の家に向かったのですが、どうやって向かったのか、はっきりしないんです。
阪神電車に乗ったおぼろげな記憶はあるのですが…ネガの続きにあったのは、これ、阪神電車の南側を走っていた阪神国道線の「金魚鉢」ですよね。背景はどうみても阪神甲子園球場。阪神電車よりずっと北側にあったはずの、叔母の家とは反対方向なんだけど…。
これも阪神国道線、バスの中から撮っているような写真です。いったいどこをどう通っていったのか…。
叔母の家に着いたのはお昼近く。ちょうどテレビのニュースで新幹線「ひかり1号」の新大阪到着シーンをやっていて、一瞬父と私が下車するシーンを叔母が見つけ、「映ってるわよ!」と妙に興奮していたのを覚えています。
このあと…私たちは17時新大阪発の「ひかり」で日帰りで東京へ戻るのですが、それまでの間、私は叔母の家からほど近い東海道線や、阪急の線路際をうろつきながら、初めての(今のところ最後の)関西の電車撮影を楽しんだのでした…が、その件はいずれまた。
ちなみに…件の「ソノシート本」はしばらくして我が家に送られてきました。びっくりしたのはメインのナレーターをあの手塚治虫大先生がつとめられていたこと! 渋い手塚先生のナレーションとイレコに、滑舌の悪い(今でもそう)私の声が入るソノシート、なんだかとってもこっ恥ずかしく、一回聞いただけで…さぁ、どこへ行っちゃったんだろうか…?
それは貴重な体験でしたね。
1番列車の運転室からの写真だけでも。
中学生の頃の声、見つかったらいいですね。
by manamana (2011-10-02 06:39)
m9(`・ω・´) ソレです! ソネブロはトロいと思うのです。 特に土休日。
そんなコトはさておき、ナント貴重なご体験をされているのでしょうか!!
営業運転中の新幹線の後部運転室に入られたとな。 しかも写真まで撮られて。 いや~ 垂涎モノの記録ですね。
ソノシート なんて単語にもイチイチ敏感に反応してしまいます。
by nexus6 (2011-10-02 20:32)
これはこれは、すごいお宝記録ですね~新幹線の一番乗りもすごいけど、即席声優体験は貴重です。
私鉄フリークとしてはパノラマカー・京都市電500形・近鉄京都線に阪国とつぼを押さえた写真の数々に涙です。
近鉄京都線の電車は元奈良線の400形でしょうか?
甲子園球場横の金魚鉢は支線の甲子園線で、ラストの写真が国道線のようです。察するに梅田から阪神に乗って、甲子園で下車されたのでは?
このときの写真、もっと見せてくださいよ~
あ、ソネブロの不調には泣かされています、今日はひとつ記事書いたのに保存出来ずで2時間無駄にしました!
by Cedar (2011-10-02 21:23)
manamanaさん
>中学生の頃の声、見つかったらいいですね。
いや、聞きたくありません(きっぱりw)。
ホント、自分の声、嫌いなんですよ。電気を通すと自分の声はこんななんだぁ…と知ってしまった(ちょっとトラウマな)中学2年生の秋…。
nexus6さん
ソネブロが遅いのはウチだけかしら~なんて思っていたら、みなさんそうなんですね。タダで使わせて貰っていて、文句をいうのもなんですが、何とかして欲しいと思う今日この頃…。
後部運転席…やっぱりK談社の名刺が効いたのでしょうか? 当時の国鉄の「空気」からすると、「見せてぇ~」「ああ、いいよ」ってなもんだったかも…。ヒコーキでも80年代くらいまで、運行中の操縦席に入れてもらった、なんて話はけっこう目にしたような気がします。
Cedarさん
>つぼを押さえた写真
いや、もうただの天然です。ナンバーもろくすっぽ読めないような写真で申し訳ありません。この後は叔母の家から北側の東海道線と阪急電車をちょこっとだけ歩いて見て回りました(いちおう西宮北口の平面クロスも…)。それにしても、阪神電車を一枚も撮っていないのなんなんでしょう? つくづく自分のセンスのなさを感じてしまうんであります。
私の場合、文章はテキストエディタで書いて、編集画面に貼りつけるようにしていますので、文章が消えちゃうというのは今のところないんですが、アップロードしたはずの画像が消えてしまうのはしょっちゅうです(笑)。
by maipenrai (2011-10-02 22:16)
確かにSo-netブログ、最近遅いですね。5年も使っていて、いまさら引越しするわけにも行きません。So-netさんの改善努力に期待するしかありません。私の接続がADSL-3MBだからかと思っておりました。
それはさて置き、新幹線一番電車のルポ、楽しく読ませていただきました。この列車の出発式を私は見に行っていました。ホームで遠くに見えるセレモニーを見ていただけですが。下記URLにその日の写真が出してあります。小さい写真が数枚ですが・・・・。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link006-special.html
乗りたいとは思えども、中小企業商社勤めの私、簡単に休暇もとれず、出発を指をくわえて見送るばかりでありました。
甲子園線の金魚鉢、国道線の31(かな?)も懐かしく拝見しました。
by む〜さん (2011-10-02 22:42)
む〜さん
あの朝の新幹線ホームはものすごい人だかりで、とても近づける感じじゃありませんでしたね。お勤めの方々を差し置いて、中坊の分際でナマイキにも…心苦しい限りです。
でも新幹線が特別な存在だったのは僅かの間で、名古屋や大阪へ出張するビジネスマンが、新幹線で日帰りが当たり前になるにはたいして時間がかかりませんでしたね。社会人になって、名古屋や大阪へ赴任した友人が上京してくると、夕刻八重洲の裏通りの居酒屋で顔を合わせ慌ただしく飲んで、終発の新幹線で帰っていくのを何度となく見送ったものです。
国道線の電車は「33」のようです。お見苦しい写真、恐縮です。
シュウチャンさん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-10-03 09:32)
あなたは既にnice!を行っています。一定件数以上前のnice!は表示されませんのでご了承ください。
「5回ほど、押してみました。」
妙齢が気になりますが、お姉様と新幹線デート・・・お父様が不機嫌になられたワケですね。(笑)
私も父と新幹線に乗った日のことを思いだしました。自称:飲み鉄は、オヤジゆずりです。
by hanamura (2011-10-03 12:43)
hanamuraさん
「妙齢のおねーさん」が前に出てきたのは最初だけで、あとはムサイ親父ディレクター? の仕切りです。これってなんていうんだっけ? ツツモタ…(以下自粛)。
いまではたまに…のことになりましたが、大阪の帰りは新大阪で缶ビール2本と「柿の葉寿司」を仕入れ、そいつを名古屋到着までに片付けて、以後は爆睡…というパターンなのですが、所要時間が短くなるに連れ、ろくに眠らないうちに東京到着のアナウンス…というあんばいです。
by maipenrai (2011-10-03 22:49)
東海道新幹線の一番列車の乗るだけでもスゴいことなのに、
雑誌社の取材を受けて、なおかつ後部運転席やビュッフェまで
経験されているとは、写真少なめでも本当に貴重な記録です。
さらにテレビにも映るオマケ付き(笑)
私は九州新幹線の新八代開業、くす玉を割る八代亜紀さんの姿を
口を開けて眺めているアホ面が、新聞の一面に乗ってしまいました(^^;)
maipenraiさんのお声が入った、当時のソノシート。
聞いてみたいものですね。。。
by あおたけ (2011-10-04 09:16)
あおたけさん
気になって万年カレンダーを調べてみたら、昭和39年10月1日は木曜日。中学の学生服来て、大阪のテレビに写っていいのか? 私…。実は都民の日で休校だったようです。でも新聞の一面も快挙ですね~(笑)。
50年近く前のことなのに、昨日のことのように恥ずかしいです>ソノシート。
燕っ子さん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-10-04 18:10)
こんにちは。
阪神の軌道線は見ずに終わってしまいました。
ミゼットとの2ショットは貴重ではないでしょうか(笑)。
by 伊 謄 (2011-10-04 22:48)
伊 謄さん
家の周りのことしか知らなかったガキのころ、初めて接した「関西」はテレビの大阪から発信される番組でした。吉本や松竹新喜劇の流れのコメディードラマが東京にもネットされていて、そこで見た大村崑や佐々十郎、ちょっと下って藤田まことに白木みのる…。で、大村崑ちゃんと佐々やんが掛け合いの生コマーシャルをやっていたんですね、ミゼットの。そこで刷り込まれたせいで、ミゼット=大阪というイメージは私の中に長く残っています。確かにダイハツ=大阪発動機、ですものね~。でも、あの番組、タイトルが思い出せません。
ねじまき鳥さん
gardenwalkerさん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-10-05 18:06)
ソノシート付きの絵本、ありましたねえ・・・・・
家にあったのは「特急こだま」(もちろん在来線)、「近鉄特急ビスタカー」に「消防自動車」。
それこそ擦り切れるまで聞いていたようでナレーションは殆ど暗記していたとか。その記憶力が今もあれば・・・・。
by サットン (2011-10-07 15:04)
サットンさん
よく同年輩の仲間で話題になるのが、中学、高校時代に覚えた歌は、英語の歌詞でも今でも歌えるのに、最近の歌は日本語でもサッパリ…という話。やっぱりハタチ前くらいまでが、人間のノーミソはいちばん柔軟なんでしょうね。我が家からレコードプレイヤーが消えて、もう20年くらいでしょうか。今当時のソノシートを入手できても、再生手段がありません。
by maipenrai (2011-10-07 19:55)