ステンプラカー! [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 前回、岳南鉄道を訪問して、ひさしぶりに元・井の頭線3000系の湘南スタイルの顔を堪能してきました。
 そういえば、3000系がデビューした時、永福町まで見に行ったよなぁ…と49年前のことを思い出し、古いネガを引っ張り出してみました。
 昭和37年(1962年)の永福町です。当時、井の頭線の車庫はここにあったんですね。

 永福町のホームから車庫の方を眺める。カメラはフジペットです。いくらなんでも「シャイにもほどがある」写真ですね(^~^;)。
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 当時私は小学校5年生か6年生。まだ車庫の事務所で撮影許可をもらうなんて知恵はなかったようで…。

 そこで強引にトリミング。三枚窓の1800形、湘南顔の1000形(1900形?)に囲まれて、紅一点とばかり、ステンレスの車体も眩しい3000系が停まっています。
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 右隅に写っている色違いの電車と、それに繋がった貨車、屋根上に前照灯がついた凸型の車掌車(?)も気になるのですが、小学生の私には全然興味がなかったんでしょうねぇ。目の前に停まっているのに、写真を撮った形跡はなし。
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 どうもこのとき撮った写真は、これ一枚のようです。千葉からはるばる新型電車を見に永福町まで行って、遠目に眺めて満足して帰っちゃったようです。ウブだったなぁ(´∀`;)。

 これで終わっちゃったら、記事としてあんまりですので、翌昭和38年に再訪した時の写真を。
 このときにはホームを出て、線路沿いの道路から撮るという知恵がついていたようです。
 この年投入されたばかりの3000系第3編成がちょうどいい位置に停まってくれていました。
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 3000系は東急車輛で製造されたオールステンレスカーですが、日本最初のオールステンレスカー・東急の7000系が、前面の加工が難しいということで切妻になったのに対し、加工が容易で強度も強いFRP素材を顔の部分に採用したことで、丸みを帯びた湘南顔を実現…ということなのですが…。
 FRP=ガラス繊維強化プラスチックでしたっけ? その頃身の回りにはプラスチック製品がいろいろ増えてきていましたが(もちろんプラモデルも)、プラスチックといえばペラペラ、ヘナヘナな印象があって、それを電車の車体に使っちゃうの? と子供心にびっくりした記憶があります。しかもそのFRPをパステルカラーで着色して、7色の顔を実現するっていうのだから、新しもの好きの小学生、張り切って東京を横断して永福町まで見に行っちゃったんでしょうね。

 ステンレス+プラスチックでついたあだ名がステンプラカー。最近聞かない言葉ですが、鉄道趣味的にはもはや死語なんでしょうか?
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 東急7000系も同じですが、ブレーキディスクが外側についたパイオニア台車も未来的な感じでワクワクものでした。

 ところで、上の写真の第3編成は、車体の裾を絞って幅を広げ、客用扉も両開きにした改良型。前年デビューの第1/第2編成も見たいところですが…。
 ちょうどいいタイミングで上りの渋谷行きが来てくれました。FRP部分がアイボリーの第2編成です。
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 永福町駅に進入する第2編成。当時は島式ホーム1本きり。今は側線部分を活用して、島式ホーム2本となり、急行の追い抜きもここでしているんでしたね。
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 左側にちょこっと顔を見せているのは、1年前にも同じ場所にいたデハデニ101号のようです。これも拡大で…。
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訂正:デハ101ではなく「デニ101」でした。戦時中、国鉄が運転を取りやめていた下河原線で、国分寺-東芝府中工場間の職員輸送用に、東芝が独自に製作した電車で、戦後国鉄の運転再開と共に井の頭線に移籍、デハ1750形1751→デハ1660形1661を経て小荷物輸送用の「デニ101」となった電車~ということです。

 このあと、私は次の電車で3000系第二編成を追っかけ、渋谷に向かったようです。
 井の頭線渋谷駅の神泉より、吉祥寺に向かって下っていくアイボリーマスクの第二編成。
 左側の線路は東急玉川線、その隣りの高架は営団銀座線の検修庫。
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 オールドファンにはおなじみの光景ですが、いまやこのカットに写る全てが、渋谷マークシティというビルの中に取り込まれてしまったのは、ご存知のとおりです。

 デビュー当時の3000系はTcMM'Tcの4両編成、のちに編成を5両に増強するにあたり、1M方式のデハ3100形を組み込んだのですが、その1M方式が幸いして(?)各地の地方私鉄に3000系が根を張っていくのですからわからないものです。
 ちなみに後付けの岳南7000形の顔ですが、やっぱりFRPじゃなく、普通鋼で製造されたもののよう。吉原駅で私が「ステンプラカー!」と叫んじゃったのは、厳密には誤りのようですね。
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Cedar

すてんぷら、と平仮名で書くとすうどんみたいですね、何も具の入っていないてんぷらのことですか。いやステンプラカーでした失礼しました。ラジカセと同じ時代感覚・言語感覚ですね。やはりどちらもいまや死語ですな。
ここからはまじめにコメントします。
まず格納庫風の永福町車庫、バスの車庫の詰め所の窓の洗濯物、そして渋谷のトンネル出口・・すべて懐かしい東京私鉄風景であります。
あとトップのフジペット写真がいいですね!私なら<一枚の写真から>タブで記事一丁でっち上げますね。
by Cedar (2011-09-07 00:19) 

hanamura

静岡鉄道の1000系は、カラフルになっていました。
(岳南鉄道よかった~。3連休後半に行けたら行きたいです。)
by hanamura (2011-09-07 05:48) 

manamana

この10年後くらい、よく利用していました。
アイボリーの編成が来ると、
子供頃には、赤とか青がいいと、ちょっと不満でした。
現代の新型にもこの編成ごとに違う正面の色が受け継がれていて、
オレンジ色が加わったのも興味深いです。
ステンプラカーって名前、鉄道の雑誌や本で知りましたが、
利用者は誰もそんな言い方はしていませんでした。
あと島式ホームを下りた上下線線路の間にある小さな駅舎、
想い出はつきません。
by manamana (2011-09-07 08:52) 

maipenrai

おはようございます。
Cedarさん
 私のOld Macに入ってるATOKではいきなり「素天麩羅」と変換されます(笑)。現在使ってるGoogle日本語入力(変換効率抜群!)でも、最初はヘンな変換されましたので、やはり今では死語なんだな…と思った次第。
 京王バスの車庫はまだ健在なんですね。

hanamuraさん
 このころは子供心にステンレスカーが眩しかった…いまじゃ「どこにいっても銀色の電車ばっかりで…」と文句を言っているのだから、我ながら勝手なものです。

manamanaさん
>利用者は誰もそんな言い方はしていませんでした。

 そうでしょうねぇ。語呂が悪すぎる(笑)。ひょっとしたら「ステンプラカー」なんていうのは、私たちの世代だけかも知れません。
 井の頭線は東京近辺の鉄道の中でもオシャレ度が高いと思うのですが(個人の感想です・笑)、そういうイメージが刷り込まれたのは、間違いなく3000系電車を見てからだと思います。

gardenwalkerさん
よしくんさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-09-07 10:04) 

J-power

スゴイ!!貴重な写真で・・・
1962年では生まれても居ませんが、母方の実家が西永福で、私自身実家が浜田山ですので、この近辺は幼少の頃自転車で走り回っていました。
永福町の丸屋根のバス車庫が、昔は電車庫だったのは知っていましたが、物心ついたときから車庫は富士見ヶ丘でした(笑)

by J-power (2011-09-07 10:46) 

nexus6

これまた貴重な写真ですね
岳南、上毛、北陸で活躍中の3000形には乗りましたが、本家本元の井の頭線は未知の世界....
by nexus6 (2011-09-07 21:29) 

利きゅう

3000系の初期型は、北陸鉄道浅野川線を訪れたときに乗車しました。
客用ドアの戸袋の位置が左右点対称になっていて両側とも右側にドアが開いたのが印象に残っています。

私も北鉄のほか、岳南・上毛・松本と乗車しましたが本家井の頭線は10年近くご無沙汰で、それも1000系だったので3000系に乗ったのが遥か昔のような気がします。

デハ101は、東芝府中工場の職員輸送用に造られた電車を譲り受けたものですよね。
国分寺から下河原線を往復していたとか。
by 利きゅう (2011-09-08 01:40) 

maipenrai

 おはようございます。
J-powerさん
 千葉に住んでいるとなかなか東京西側の私鉄に乗る機会には恵まれません。マークシティに取り込まれた後の渋谷駅も、まだ経験していないんです。現役の1000系は、前面に非常扉がありながら、デザイン的に(伝統の)前面二枚窓ふうにみせるこだわり(?)がイイな、と思ってます。

nexus6さん
 出戻り爺鉄は、逆に上毛も北陸も未体験…。とりあえず手近な上毛を見に行きたいと思ってます。やっぱり冬場がいいでしょうか?

利きゅうさん
 本文も訂正してありますが、この当時はデハではなく「デニ」101だったようです。失礼しました。
 下河原線は営業-休止を繰り返していたようで、戦時中に競馬場輸送がなくなり国鉄が運転を休止した時、東芝府中工場が工員の通勤輸送のために、独自に制作した電車で、戦後国鉄が運転再開したのと同時に井の頭線に移ってきた…ということなのですね。面白い由来ですねぇ…。
>客用ドアの戸袋の位置が左右点対称
 ありそうでなさそうなドア配置ですね。勉強になりました。

yakitorimitbierさん
しまりすさん
フジトモさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-09-08 08:19) 

あおたけ

これまた貴重なお写真!
今見ても見劣りしないステンプラカー3000系。
この頃はとてもハイカラな電車に見えたことでしょう。
渋谷駅の井の頭線と銀座線の間に玉電の線路が見えるのも、
今となっては驚きさえ感じます。

片扉の一次車は北鉄に譲渡されたんですよね。
今でも浅野川線で生き残っているのかな・・・?
by あおたけ (2011-09-08 15:55) 

京葉帝都

写真当時の永福町車庫は案外収容力があったように見えます。
大きな屋根の検修庫はバスの車庫になってからしか見たことがありませんが存在感がありました。
千葉市の作草部(さくさべ)に旧陸軍気球連隊の格納庫が1棟残っていて倉庫として活用されていますが、永福町車庫の建屋と形状が良く似ています。
by 京葉帝都 (2011-09-09 00:55) 

maipenrai

あおたけさん
 ステンレスカーもコルゲートなしが主流になり、コルゲートありの車体は古臭い印象がありますが(うちの近所の某K成の場合、とくに)、3000系は到底50年も前に設計された車両には見えません。もっとも最新のものは1987年製のようですから、25年にも渡って増備され続けたんですね。残るはあと2編成ということですが、今のうちに井の頭線で見ておきたいですね。

京葉帝都さん
 完全な丸屋根ではなく、中央部分がとんがっている、宝珠形というのか面白い形ですね。作草部の気球連隊…まったく知りませんでした。例のジェット気流に乗せてアメリカ本土を爆撃するという「風船爆弾」を運用した舞台なんですね。
 
シュウチャンさん
ねじまき鳥さん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-09-09 19:45) 

maipenrai

銀狼さん
FTドルフィンさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-09-10 14:11) 

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