房総の夏輸送~その2~ [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 小高い丘の上にある新検見川駅を過ぎ、右にカーブを切ると、総武線はなだらかに下って谷地を築堤で渡ると、再び稲毛の台地に向かって上っていきます。このあたりまで来ると、列車の開け放たれた窓から入り込む風に潮の匂いが混じり、海が近づいたのが感じられて、臨海学校に向かう子供たちの胸は高まっていきます…。

 な~んて遠い記憶を頼りに、勝手に創作してますが、確かにこのころは、幕張、検見川、稲毛と続く海岸線はほとんど埋め立てが始まっておらず、国道14号線の脇はすぐに海だったんですね。

 昭和41年(1966年)夏、ひょっとしたら海が見える場所があるかもしれないと、総武線を稲毛で降りた私、新検見川方向に歩いていい撮影場所はないかと探したのですが…、夏草に阻まれ線路に近づけず、こんな「シャイなアングルにもほどがあるだろ」写真になってしまいました。C57牽引の房総西線行き夏臨客レが、稲毛に向けて緩やかな勾配を上り始めたところです。
01稲毛俯瞰01.jpg


 同じ場所から…、クモハ73を先頭とする総武線下り電車と、101系の上り電車の離合。そうとうトリミングしています。背後の丘の上にいくつもの鉄塔が立っているのが分かるでしょうか。東京無線電信局検見川送信所の送信塔。船橋の行田の送信塔(旧日本海軍が建設、「ニイタカヤマノボレ」を打電したことで有名)と並んで、総武線沿線風景の特徴になっていました。丘の裾を京成千葉線が走っているはずですが、この写真ではわかりませんね…。
02稲毛俯瞰02.jpg


 ということで、前回に引き続き、真夏の千葉名物「夏輸送」、今回は昭和41年の千葉駅周辺の画像を中心にご覧いただきます。
 稲毛駅に戻る途中、駅の新検見川よりで写した「急行汐風」。千葉から房総西線に入ります。キハ28系で揃えたきれいな編成です。列車の右側に特徴ある工場のような建物が建っています。私はずっと「専売公社」の建物だと思い込んでいたのですが、調べてみると専売公社は西千葉よりにあり、もうひとつ、稲毛駅から引込線が出ていたアルコール工場も、写真の左側にあったようです。となるとこの建物はなんだったんでしょう?
03急行汐風.jpg


 やはり稲毛駅の新検見川寄り。千葉気動車区を出区したキニ19の2両編成は、おそらく両国に夕刊を引取りに行く途中ですね。
04キニ19稲毛西方.jpg


拡大してみると稲毛駅の跨線橋が見えます。踏切を渡る京成バス、よくみるとドアが中央の一箇所だけ…。ということは、まだバスに車掌さんがいた時代なんですね。
04-2京成バス.jpg


 西千葉駅です。まだ午前中のはずで、とすればC588(佐)牽引のこの客レは、銚子発両国行きの326レかな。中線は千葉気動車区への入庫線。下り本線を跨ぎ越すために、ここで開通待ちできるようになっていました。
05西千葉C588.jpg


 千葉駅にやって来ました。駅の西側、北のはずれ。総武線か成田線の列車を牽いてきたC57161(岩)が真上から照りつける陽射しの中でしばし小休止。
06千葉C57161.jpg


 こちらはやはり新小岩区所属のC57164。
07千葉C57164.jpg


 そして、お待たせしました。この夏の白眉、「急行!」汐風の登場です。ヘッドマークは間違いにあらず、キハ17167を先頭にしたキハ17+18+17☓2の堂々の6両編成。私自身キハ17系で綺麗に揃えられたこんな編成、千葉で見たことはたぶん、ない。「遜色急行」と呼ばれるのを覚悟で、キハ17系を急行に使わざるを得ない状況に追い込まれ、ならばせめてと、「編成美」を追求した当時の担当者の心意気が胸を打つのであります、いや、マジで…。
08汐風キハ17167.jpg


 稲毛で見たキハ28系で揃えた「汐風」、そしてこのキハ17系で揃えた「汐風」。そうかっ、「選択と集中」とは、こーゆーことなんだな…やっぱり違いますね。
 千葉駅を出発するキハ17系「汐風」。ホントに惚れ惚れするような綺麗な編成です。乗りたいとは思わないけど…。
09汐風キハ17後追.jpg


 「汐風」が出発した後の千葉駅4番ホーム。房総西線館山行きの普通列車が停車中です。まだコンクリートも真新しい高架のホームには架線も張られていません。スユニを含む10連とは、昼下がりの下り列車にはいかにも輸送力過剰ですが、おそらく館山から海水浴帰りの客を運ぶ上り列車の送り込みなのでしょう。
11C578房総西線客レ.jpg


 西口の跨線橋から見た風景。架線が張られているのは、総武線各駅停車の折り返し専用の1/2番線だけ。その海側に作られた「0番線?」は蘇我方面から新小岩方面に直通する貨物専用です。
12D511051貨物.jpg


 千葉の駅を出て、本千葉方向に歩いて向かいます。この時点ではまだ京成は地上を走っていました。高架化され、あの「国鉄千葉駅前」駅ができるのは翌昭和42年末のこと。
 千葉駅手前の高架線を、C57134が牽く房総西線の上り臨時客レが通過していきます。
13C57134臨客.jpg


 客車をアップで見ると、うわぁ、けっこうな乗客で溢れていますね。
13-2客車アップ.jpg


 上の画像の列車を後追いで見る。ここでようやく京成電車登場。先頭で写っているのは更改された600形でしょうか?…
14京成と客レ.jpg


 なんてことはこの際関係なく、アップで見ていただきたいのはこちら。
14-2スユニ30?.jpg


 客車の最後尾、二重屋根の年代物の客車が写っています。京成の信号機の影に隠れてしまっていますが、円盤状のテールマークも見えますね。でもそれより、この客車、車体長も他の社用に較べ短く、両端のデッキの他に、車体中央に大きなドアが付いていて、どうやら荷物合造車…ではなく、当時の千鉄局の客車配置を照らし合わせると、郵便荷物合造車のスユニ30形のようです。だけどデッキにも、中間のドアにも、一般乗客らしき人影が見えます。うわぁ、スユニにも客を乗せていたのかよ…と、40数年の年を超え、今更気づいた私なのでした。
お願い:客車の形式の見立てなど、誤りがありましたら何卒ご指摘よろしくおねがいします。なにしろ当時の客車についての知識、ほとんど皆無な私ですので…。

 本千葉駅手前まで来ました。C57125+C57の逆単機回送。まてよ、機関車2台だから「単機」はおかしいのでは? でも客車や貨車が繋がっていないから単機でいいのか? それとも「逆単機重連回送」?? 機関車が4台も5台も連なって坂を下っていた昔の瀬野八なんかじゃなんと呼んでいたのでしょう?
 千葉に到着した機関車が、方向転換のため転車台のある蘇我に向かうところです。西千葉の千葉気動車区にも転車台があり、こちらで方向転換する場合もありました。
15C57125逆単回.jpg


 本千葉駅です。C58154の牽く房総西線の客レが到着。今日はこの列車で帰ります。この列車もずいぶん混んでいるようですね。
16本千葉C58154.jpg


 ということで、次回は「千葉の夏臨~その3」をお届け…するつもりでしたが、実は今日、↓このきっぷで小湊鐵道、いすみ鉄道、銚子電鉄を乗り鉄することになってまして…。
17キップ.JPG

 1800円で上記3つの民鉄と、千葉県内のJR全線乗り放題という企画きっぷ「パワフル×スマイルちばフリーパス」。小湊-いすみを正規料金で乗り通すより安い、というなんだか申し訳ない値段のこのきっぷで、小湊、いすみ(木原線)、銚電を40何年ぶりかの再訪してきます。
 ただ、旅の相方が「鉄分皆無お酒大好き」な方々なので、途中脱線の可能性も大いにあり。首尾よくまとまれば、こちらの記事を先に出させていただくかも。

 おまけに今日の京成電車。
 3000形3024Fで、今年も「京成グループ花火ナイター号」が走り出しました。
18花火ナイター号今年.JPG


 去年初めてCedarさんのブログで、地元京成ネタを発見、
http://cedarben.blog.so-net.ne.jp/2010-05-05
 大いに触発されて(…にしちゃ始動が遅いけど)40何年ぶりかで線路脇に立ち、電車にカメラを向けたのがちょうど一年前のことでした。
19花火ナイター号去年.JPG

 一年前の「京成グループ花火ナイター号」は3021Fでした。

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京葉帝都

今回も身近に利用している区間の昔の情景の感激しました。稲毛駅、西千葉駅の地上時代の様子がなんとなく分かってきました。丁度新検見川駅では駅開業60周年のイベントが行われており、コンコースでは写真の展示が行われています。旧逓信省の通信所が稼働している頃の写真は初めて見ました。今は頑丈なコンクリート造の事務•機械棟が廃墟として残っているだけです。千葉駅の1番〜6番ホームの雰囲気は当時も今もあまり変わっていないようです。
by 京葉帝都 (2011-07-16 01:25) 

hanamura

SLいっぱい…でも夏の館山までSLは、過酷な旅かもしれない。SLよりビットが立ったのは、京成バス!カラーリングが同じにみえますがぁ…そうなのですか?
パワフル×スマイルちばフリーパスいい企画ですねぇ!乗り鉄と言えば18切符が20日からですがぁ…迷って迷って考え中。
by hanamura (2011-07-16 06:29) 

Cedar

前回に続いて、当時の千葉の夏の感じが伝わってきて涙もの写真の連続ですね!

稲毛のシャイなアングル、私は好きですね~。小学校の頃の遠足で稲毛に潮干狩りに行きましたが、記事に書かれているように千葉街道(国道14号)の渡るとすぐそこは浜でした。

オハ61や17mダブルルーフを総動員!しかもテールマークつきのSL客レに満員の乗客・・・そうそう、ホントに夏の千葉の汽車は混んで混んで混みまくっていました。アクアラインなんて夢のまた夢・・の頃でした。

最後に(コホン、ちょっとまじめに)私の拙い記事がmaipenrai様がブログをはじめられたきっかけになり、このようなすばらしいご褒美を(すばらしい写真の数々を拝見できた)いただけたことに感謝いたします。ありがとうございました。
by Cedar (2011-07-16 08:35) 

maipenrai

おはようございます。昨16日は炎暑の下、小湊、いすみ、銚電を駆け足で乗り鉄&呑み鉄してべろべろで帰還しました。レス遅くなりましたこと、お詫びいたします。

京葉帝都さん
 新検見川、稲毛、西千葉の辺りも鉄道は高架化、残っていた田圃や畑もすべて宅地になり、東関東自動車道が横切り…と過日の面影は殆ど見られませんね。千葉駅も直上駅舎化の工事が進むと、がらっと雰囲気が変わってしまうのでしょうね。通信所の建物(遺跡)は、建築好きな方々にはたまらないものらしく、一度見ておきたいな、と思っています。

hanamuraさん
 50年近く前は、SLの牽く客車で房総の先まで行っても、現地についたら元気に遊びまわっていたような…。いまは209系に銚子から千葉まで揺られただけでヘトヘトになる私です(笑)。京成バスの塗装、少なくとも50年以上はあのまんまです(ディティールは変わっているのかも…)。千葉だと小湊鐵道のバスもカラーリングは昔のまんまですね。

Cedarさん
 身に余るお言葉、ありがとうございます。でもこうやってタンスの中でカビを生やしていたネガたちが日の目をみる(?)ことができたのもCedarさんのブログに触れたればこそ…感謝しております。それにしても、あれだけたくさんの海水浴客が訪れた夏の千葉…。レジャーの形がまったく変わったとはいえ…いまは寂しい限りです。

FTドルフィンさん
フジトモさん
manamanaさん
きんたさん
nexus6さん
銀狼さん
燕っ子さん
gardenwalkerさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-07-17 08:25) 

yomachi_1971

ブログの更新、おつかれさまです。いつも楽しく拝見しております。
特に、昔の写真とコメントは当時を知る貴重な資料として大変興味深く、
何度も繰り返し拝見しております。
さて、急行汐風号の後ろに写っている工場の建物は
アルコール工場と線路を挟んだ位置らしいとのことから、
丸山製作所の稲毛工場('97年に廃止)ではないかと思われます。

これからも、昔の写真など新着記事を楽しみにしております。
by yomachi_1971 (2011-07-17 10:38) 

maipenrai

yomachi_1971さん
 はじめまして。ご教示ありがとうございました。馴染みのない名前ですが、消火器、噴霧器等を製造するトップメーカーとのこと。私もホームセンターなどでお世話になっているかもしれません。この場所、いまは大きなマンションが立っているところでしょうか。
 今後とも宜しくお願いいたします。
by maipenrai (2011-07-17 13:40) 

yomachi_1971

maipenraiさま
返信いただき、ありがとうございます。
こちらこそよろしくお願いいたします。

丸山製作所の稲毛工場跡地は、現在のアクアフォレスタ ルネ稲毛というマンションのある場所でした。
昭和40年代は、更にマンション隣りのマルエツ稲毛店までが丸山製作所の敷地だったようです。
(国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム(=URL参照)で確認)

余談ですが、私は'90年に稲毛工場で期間工として働いたことがあり、
当時私が配属された生産ラインでは農薬散布用の噴射機を組み立てておりました。
by yomachi_1971 (2011-07-17 15:49) 

maipenrai

yomachi_1971さん
 さっそく空中写真閲覧システムで見てみました。マルエツのあるあたりは、まさに私が「夏草に阻まれた」斜面のあたりですね。あらためて土地の様相の変化にびっくりしています。
 60年代までは、西船橋、新検見川、西千葉を除く総武線電車区間の駅にはどこも貨物の荷役設備があり、駅近くの工場まで引込線が伸びていた駅も多かったですね。そんな駅近の工場も、いまやみんなショッピングモールやマンションに生まれ変わってしまいました。

シュウチャンさん
しまりすさん
あおたけさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-07-18 20:21) 

む〜さん

 昭和26年だったかな、中学三年の夏、臨海学校で富浦へ行きました。たぶん、両国から、ひょっとしたら千葉から、房総西線を富浦へ・・・。当時の事ですから、勿論、蒸気機関車牽引の客車列車。高校受験を控えて、三年生は殆ど参加してなかったけれど、両親におねだりして行かせてもらいました。
 そんな少年時代のことを思い出しています。
by む〜さん (2011-07-19 09:14) 

maipenrai

む~さん
 やはり臨海学校に行かれたクチですか。昔の都内や近郊の小中学校はどこも「夏の房総の臨海学校」は定番だったようですね。内房の穏やかな海と、俗化していない自然が小中学生にぴったりだったのかも知れません。高校の時は外房の興津で臨海学校ならぬ「游泳訓練」。太平洋の荒海で遠泳させられました。

うつマモルさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-07-19 19:00) 

maipenrai

よしくんさん
SpeedBirdさん
ねじまき鳥さん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-07-20 07:26) 

line

昭和42年に稲毛海岸に引っ越してきまして、7年ほど在住してました。
通ってた稲毛第二小学校がちょうど海沿いでしたから、14号線から少し埋め立てが進んでた感じでしたね。
アルコール工場近くの踏み切りは、私も良く行ってました。ただ中学に入ってからでしたから、同じキハ28でも「そと房」の頃です。懐かし写真有難うございます。
ちばフリーパス、私も17日に使って五井~大原ルートを堪能してきました。しかし、銚子電鉄まで乗るとなると結構大変なのでは・・・
by line (2011-07-20 20:52) 

maipenrai

lineさん
 たまたま記事を書いている途中に稲毛近辺のことを調べていたら御ブログに行き着きました。EF10やEF15が貨物を牽いていた頃の写真、逆に私にはとても新鮮でした(その頃は鉄離れを始めていたので…)。
 フリーパスの旅はあのカンカン照りを口実にひたすらフマジメに呑み鉄しまして…、ぐだぐだの顛末をようやく今日、一部アップしたところです。
by maipenrai (2011-07-21 00:06) 

平和堂

日々、ブログの更新を楽しみにしております。

自分自身、総武線沿線に育ちました(市川南口)が、オヤジや婆さんから聞かされていた高架化以前の総武線の情景を綴った記録の数々にため息です。

ピクトリアルなどの専門誌では、ここまで子細に語ることは難しいなか、ブログだからこそできることだと思います。

昔日の千葉シリーズこれからも楽しみにしております!
by 平和堂 (2011-07-29 17:00) 

maipenrai

平和堂さん
 コメントありがとうございます。
 60年代の市川南口は、まだそこここに田んぼも残っていましたし、広い原っぱもあってザリガニ釣りや野球を楽しむことが出来ました。再開発でツインタワーも出来て、たまに出かけると「いったいどこの街?」とため息が出ます。
 還暦超えした爺のつたないブログですが、これからもよろしくお願いいたします。
by maipenrai (2011-07-29 18:19) 

watoson

いつも貴重な素晴らしい写真と、当時のお話を楽しみに拝読させていただいております。
本当にありがとうございます。

私の両親が検見川出身でして、私が幼い頃(昭和50年頃)よく「省線の?」新検見川駅を利用しておりました。確か当時は新検見川より稲毛の方が近代化が遅かったような気がしますが(自動券売機などですが?)
当時は、新検見川駅は2面ホームの対向式で、跨線橋を渡って改札口に言った記憶があります。あの頃から駅前には「西友」がありましたね。
ただ、複々線開業になり、花園方面に向かう踏切が廃止されたのを覚えております。

もし、新検見川駅付近のお写真などございましたら、いろいろと当時のことをご教示頂きたく、宜しくお願い申し上げます。
by watoson (2011-12-27 00:08) 

maipenrai

watosonさん
 はじめまして。いつもご覧いただきありがとうございます。
 新検見川駅は、戦後の昭和26年開業ですから、私と同じ年です(笑)。それでも総武線の千葉までの間では、東船橋、西船橋に次いで新しい駅ですね。私の子供の頃はホームもまだ真新しい感じで、対面式の下りホームには丘陵が迫っていた…と記憶しています。
 残念ながら新検見川で写真を撮ったことはないのですが、父に連れられて検見川海岸…花見川の河口の漁師町のような風情で、国道14号の南側はもう海でした~に釣りに行った時、漁船が巨大なエイを曳航してきたのを覚えています。もう50年も前の出来事ですね。
 
by maipenrai (2011-12-28 01:15) 

watoson

maipenrai さま。
お返事を賜りまして誠に有難うございます。
確かに、今年新検見川駅は記念式典がありましたね。

実は、私の両親は検見川の漁師町でして…
国道14号(旧道)の後ろ(家の裏)はすぐ海で
海苔や貝などをとっていたそうです。
祖父は帆掛け舟で生麦付近までやはりエイをとっていたそうです。
私が、幼心に覚えているのは、
稲毛駅に自動券売機がなく、当時上野に住んでいた私は
窓口で「硬券」だった思い出があります。
新検見川は、自動券売機があったのですが…?

今では、駅も街も逆転してしまった感じですね。
確か、稲毛は写真を拝見するに、西千葉と似た感じだった
と、微かな記憶です…。
これからも、いろいろとご教示くださいませ。


by watoson (2011-12-28 23:39) 

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