客はどこへいった? 地下鉄東西線1964年 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 九段下は高校時代の3年間を過ごし、また数年前まで十年余り活動の拠点をおいていたところなので、個人的には思い出も思い入れも多い町です。浦安に住んでいた時期も長かったので、地下鉄東西線にもそれこそ数限りなくお世話になっているわけで…。
 そんな九段下の東西線、車両は5000系、だけど様子が変…。
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 ホームの端っこのほうにポツンと停まった電車。3両しかつながっていないし、前面の青帯がやけに細いし、車両番号も入っていない…そんなことより乗客の姿がは全く見えない…。実はコレ、1964年(昭和39年)東西線高田馬場-九段下が開業した当初の様子です。確証はないんですが、12月23日の開業当日かもしれません。けっこう私、初物好きのミーハーだったし。
 おそらく早起きをして、中学校の始業時間前に、新しい地下鉄をちょっと覗いていこう、という感じだったのでは?
 ということは、早朝なんでしょうが、しかし見事に人がいませんね。当駅折り返しとはいえA線(1番線)もB線(2番線)も使っているのに、どちらのホームも見事に客が一人も写りこんでいません。
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 2番線の案内表示には飯田橋、神楽坂、早稲田、高田馬場方面…方面というより全駅表記していますね。
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 ご参考までに飯田橋駅で撮ったショットを。
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かぶりつきには大勢の人の姿が見えますね。中のほうまでは分からないけど。
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 ちなみにそのころの九段下の地上はこんなふう。神保町の方からやってきた都電15系統の800形早稲田行きが右折して飯田橋方向へ向かうところです。この15系統も東西線が1967年に東陽町まで延伸されたことで、命脈を絶たれてしまったのでした。
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 思えばあれから嫌になるほど乗った5000系(それしか走っていなかった時代なので…一時半蔵門線用の8000系が貸し出されてきたときは欣喜雀躍)も、東西線からは4年前に姿を消し、今では北綾瀬支線で姿を見られるだけとか。最近じゃインドネシアに譲渡されてジャカルタ近郊で走っているのが注目を浴びていますね、機会があれば見に行きたいな。
 余談ですが、70年代にウケた「地下鉄の電車はどこから入れたか考えたら一晩中寝られない」の漫才ネタ。あれを聞いたときに東西線の部分開通時のことを思い出しました。この高田馬場-九段下は東京の地下鉄で最初の「地上開口部のない地下鉄開業」じゃなかったでしょうか?

 今や混雑率全国ワーストワンといわれている東京メトロ東西線(通勤で使っておられる方、ご苦労様です)、開業当初の「こんなにお客がいなくて大丈夫?」な風景でした。

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manamana

中央線と京王線の間で育ったので、
東西線と中野で繋がって相互乗り入れするというのは、
一大イベントでした。
後楽園に都市対抗見に行くのに、
東西線経由をねだったら、連れて行ってくれた祖母が、
たぶん飯田橋の改札の精算に難儀していたような記憶があります。
by manamana (2011-02-10 22:27) 

Cedar

東西線って、今や駅の設備の古さが目立ちますね。
3連の5000系は千代田線の部分開業時(北千住~大手町だったか)にも走っていました。
by Cedar (2011-02-10 23:39) 

nexus6

小生の場合、西船橋まで延伸した時代以降の東西線しか知らず、これまた見入ってしまうお宝画像であります。  周りにな~んにも無かった西船橋駅から都内に伸びる高架線に、未来を感じたのでありました。
( 大袈裟... (^^)ゞ )
5000形はお世話になったしスキな電車でありましたが、1枚も撮っていないことが悔やまれます...
by nexus6 (2011-02-11 10:00) 

maipenrai

manamanaさん
 私も京成沿線育ちなので相互乗り入れにはワクワクしたものです。実は京成が都営浅草線の浅草橋まで乗り入れ開始した日にも見に行っているんです(笑)。実にお祭り好きな鉄ガキでした(汗)。

Cedar さん
 九段下駅は竹橋寄りこそ他線との乗り換えができてだいぶ様相が変わりましたが、飯田橋よりの雰囲気は47年前とほとんど変わっていませんね。A線に乗ってくると、いったんアンダーパスをくぐってB線のホームに出て、改札を出てまた階段を登って…という不便さも昔のままです。

nexus6さん
 葦の茂る湿地帯や蓮田を突っ切って、遠くには海が見えて…凄い風景でしたね。切れ目なく家が立ち並ぶ今の風景に変貌するのに10年もかからなかった気がします。5000系は営団の中ではチープな感じのする作りの電車でしたが、葛西の地下鉄博物館の運転シミュレータで遊んでからちょっぴり好きになった気が…(まだあるのかな?)。
by maipenrai (2011-02-11 16:17) 

む〜さん

日比谷線開業を南千住に見に云ったときも寂しかった想い出があります。東西線の5000は無骨で親しみ難かったのですが、度々利用しました。
都電の800形は結構好きな形式でありました。車掌台の真上の電灯が独立している感じで良い感じでありました。
by む〜さん (2011-02-11 21:39) 

maipenrai

む〜さん 
 日比谷線は最初、南千住と仲御徒町の間の開業でしたね。人形町と北千住に延伸されるまでは2両編成の運行だった気がします。あの区間もお客は少なかったでしょうねぇ。都電800形は早稲田車庫に集中配置されていて、15番でしか見ることがなかったような…。
(いつもながら“さん”づけ省略ご容赦を。。)
by maipenrai (2011-02-12 08:53) 

あおたけ

これまた非常に貴重なお写真。
都心のジャンクション駅、九段下にもこんな閑散とした
頃があったのですね。
ところで本文を読んで気になったのですが、実際にこの
5000系はどうやって入れたのでしょうか?
都心のど真ん中にに開口部があったのでしょうか??
by あおたけ (2011-02-12 11:13) 

maipenrai

あおたけさん
 うろ覚えの記憶ですみません…九段下-竹橋の間のお堀際にそのための開口部を設けて(九段下近辺は確かに表土が浅いです)、そこからクレーンで吊るして下ろした、というのを見た記憶があるんです。TVのバラエティ番組だったか、鉄道誌の記事だったかすら覚えていないんですが…。
by maipenrai (2011-02-12 22:55) 

maipenrai

gardenwalkerさん
湘南ライナーさん
 nideありがとうございます。
by maipenrai (2011-02-13 01:57) 

ひもブレーキ

私が高田馬場駅前の小学校に通っていた時、地下鉄東西線が開業しました。当時は本当に乗客が少なく何時もこの写真の様でした。この頃は、夏は涼しく冬は暖かくて地下鉄とはなんと素晴らしいものだと思っていたことを覚えています。
それに、都電の800形一番好きな都電の車両です。
by ひもブレーキ (2011-12-19 16:26) 

maipenrai

ひもブレーキさん
 コメントありがとうございます。
>夏は涼しく冬は暖かくて地下鉄とはなんと素晴らしい
 全くその通りですね。時を経て東西線で通勤していた時代は、おそろしく混雑する電車と、夏場、電車の抵抗器から立ち上がる熱気に閉口していたものですが…。さらに真新しい地下鉄の匂い、なんとも表現できない芳香でした。
 800形は私の知っている頃は早稲田車庫に集中配置、しかも15番専用のような使われ方でした。
by maipenrai (2011-12-20 22:17) 

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