昭和41年夏~呉線、そしてヒロシマ~ [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

高校一年の夏休み…。同窓の友人たちと岡山で「お勉強合宿」をしたことがある。仲間内では「天皇」と呼ばれていたF君、僧侶だったお父さんは、すでに亡くなられていたのだが、その宗派のお寺や、ご親戚の家に泊めていただけるということで、私を含めた5人が無遠慮に押しかけたのだった。でもさて、お題目の「お勉強」などした覚えはさっぱりない…。
 その時のメンバーは、私以外は皆非鉄。私も初めて訪れた岡山、いろいろ気になる物件はあったんだけど、あえて鉄は封印、高校生5人で後楽園を見たり、瀬戸内海で泳いだり、川で泳いだり…まぁ、男ばかりではあったけど、ひと夏の青春を謳歌したわけだった。

 東京に帰るという前日、誰が言うともなく「明日は8月6日。広島に行こう」という話が持ち上がった。言うまでもなく、8月6日は広島の原爆記念日。70年安保には、まだ少し時間があり、政治的にはのどかだった時代。当時は皆ノンポリだったけど、大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」あたりは皆読んでいたんだろうね、「ヒロシマ」を一度自分の目で見てみたいという気持ちがあったんだろう、たちまち衆議一決…。

 非鉄の友人たちに合わせ、鉄っ気を封印していたん私だけれど、いざ「広島に行く」と決まればムラムラと沸き起こる鉄魂。広島かぁ~呉線に行けばC59やC62が走ってるよなぁ~
 オレ、一足先に行ってるから、広島で会おう~なぁんてカッコよく宣言して、6日の朝に、広島に向かう予定の仲間より先に、5日の晩、ご厄介になっていた津山線の金川にあるF君の親戚のお宅を辞して、一人岡山駅へ向かったのだった。
 夜遅くの電車で糸崎へ。深夜の糸崎機関区で佇むC62を撮影、そのまま京都からの夜行急行「音戸」に乗って、まんじりともせぬまま、早朝の広駅へ降り立った…。

 画面左に停車中の客車が、私が乗車してきた列車。真夏の夜行、冷房もない狭い座席でまどろんでいた乗客たちが、ホームの洗面所に集まって来る。入れ替わりに上りのローカルDCが発車していく…。
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自爆! 電車音痴の福島交通軌道線 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

あ゛ー、やってしまった。
 そろそろブログ更新しなきゃ、と写真を用意し、テキストを書きだしたものの、さっぱり先に進めず、行き詰まってた昨晩のこと。
 気分転換にと、敬愛するCedarさんのブログをROMするつもりでアクセスしてみると…おぉ。福島交通軌道線だ! しかも総天然色!!
http://cedarben.blog.so-net.ne.jp/2012-08-08

 あまりに素晴らしい写真にうっとりし、自分が昔訪れた福島交通軌道線の姿を思い浮かべていたんです。
 季節もちょうど今頃だったし…ね。
 で、よせばいいのに、Cedarさんのブログに、コメントしてしまったわけです。「実は私も昔、ここいらに行ったことがありまっせ」なんてね。しかも、写真を撮ってることまで書いてしまった…よせばいいのにねぇ。
 そしたらCedarさんが、→その写真、ぜひUpしてください、とコメ辺を返して下さった。

 ちょちょ…ちょっと待って下さい。
 私が書いたコメントは、「父の運転するクルマで、湯野線の電車とすれ違ったことがあります。振り向きざま撮った手元にある写真は、クルマの巻き上げる砂埃と、凸凹道の振動でブレブレ…。」
 ホントにブレブレなんですってば! 
 いや、もうこのブログを初めて以來、幾度と無く思い知らされてきたオノレが「電車音痴」っぷり。Cedarさんをはじめ、60年代当時の地方私鉄や電車にお詳しく、素晴らしい写真を残されている方が、綺羅星のごとくいらっしゃるブログワールド。こと、このジャンルでは私なんぞが出る幕はないことは、わかってるはずなのに…。
 でもねぇ…写真を撮ってる、って言っちゃった手前、しかも敬愛するCedarさんに「ぜひUpしてください」と言われちゃった手前、知らんぷりはできませんよねぇ…。えぇ、出します。出しますとも。
 この写真です。
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 おー、恥ずかしい。

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到来ものですが…暑中お見舞い。 [番外]

お暑うございます。
 月が変わっても変わらぬ暑さに、すっかり引きこもりを決め込んでいる毎日。
 せめてブログで、「涼」をお届けしたいと思うのですが、生憎そんなネタが見つからない…なんて思っておりましたら、畏友・higeraman氏経由で涼し気な画像の到来物が…。
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 ステンレスの車体が涼し気なタイ国鉄の客車。こんな高圧洗浄車で武装して、ソンクラーン=水かけ祭りに参戦してみたいものです。
 もう一枚、
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 こちらの画像は、タイ友の「まろピー」氏が、ネタ不足の拙ブログを見るにみかねて、お送りくださったもの。数日前まで訪泰なさっていたようで、鉄分ゼロなはずの「まろピー」氏、まさか鉄目当ての旅…のはずはないけれど、楽しげな鉄ネタが満載です。
 今回は自前ネタゼロ。「まろピー」氏撮影の、直近タイ国鉄画像で、暑さを吹き飛ばして下さいませ。

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思考停止の暑さかな。 [ご近所鉄(京成電車など)]

 10日ほど前に、仕事の山は越え、さて、放置しっぱなしのブログの更新をしなくちゃ…しばらく古ネタが続いたので、どこかに撮影にでも…と思っていると、季節はずれの寒空、曇り空。パッとしない天気にお出かけを一日伸ばしするうち、急に空が晴れ渡ったと思ったら、今度は気温がうなぎのぼりに上昇。玄関を一歩出た途端、がつんと押し寄せる熱気と湿気にたじろいで、「やーめた」と家の中にUターンすることも幾度か…。
 まったく爺さんには優しくない陽気が続いております…ってブログ放置の言い訳のマクラも、おなじみになっちゃいました。

 今日も家人が留守をしているので、誰もいない2階は窓をすべて開け放ち、クーラーをつけっぱなしの1階から上がってみると、なんと室内の温度計は34度。風もほとんどなく、熱中症危険エリアと化しています。
 そんな我が家の2階から南側を見ると、隣家の屋根越しに見えるのは夏空…ではなく、こんな風景。
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 地元の京成八幡は、いま再開発事業工事の真っ最中。高層ビルの工事が進んで、大変なことになっている。
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 八幡小前の商店街、通称北京通りから眺める京成八幡駅に隣接した踏切(菅野5号)。その向こうには巨大なビル群が生まれつつあります。
 踏切の向こう側、古くこじんまりとした商店街が軒を連ねていた「八幡横丁」は跡形もなく姿を消し、私が子供の時分には八幡のランドマークだった「京成百貨店」も解体され、跡地には超高層ビルが次第に形を整えつつあります。

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「小さく前へならえ」の謎 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 電車の編成美の新概念、「小さく前へならえ」は、既に皆様御存知かと思います。
 え!? ご存じない。それは是非ともCedarさんのブログ記事
http://cedarben.blog.so-net.ne.jp/2012-06-23
 をご覧くださいませ。

 こういうユニークな視点と切り口、凡庸な私なんぞ思いもつかないところですが、かてて加えてネーミングの妙にもため息が出るばかりです。

 あ、よろしかったらご覧になったあとはこちらに戻ってきてくださいね。まだ続きがありますんで…。
 あ゛ー、もう半分以上の方があちらへ行きっぱなしです。しょーがない、続けます。題して「私が見た『小さく前へならえ』」

 東京オリンピックがあった昭和39年のこと。モノクロ写真で見る空には、真夏のような雲が浮かんでいますが、走る電車を見ると窓が全開ではないので、もう少し早い時期かも知れません。場所は総武線新小岩-小岩間。総武線の上り電車を後追いで撮影しています。手前の線路は総武線の下り線。画面右側は新小岩操車場の東のはずれで、画面奥に小さく操車場を跨ぐ小松橋のトラス橋が見えています。
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 39年当時としては珍しくもない旧国の8…いや、7両編成です。最後尾はクモハ41だと思いますが、2両目はモハ72?

 画像を拡大してみます。
 クモハ41の次位の車両に、乗務員扉が見えます…ってことはクモハ73?
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 なんと片運転台のクモハが2両、同方向を向いて連なっています。う~む、これは立派な『小さく前へならえ』。

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夜更けの嵐が心を刺す~キハ81系はつかり [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 前回記事で昔の「千葉気動車区」をご紹介しましたが、あれ以來、DMH17エンジンのぐゎらんぐゎらんというアイドリング音が耳元で鳴り続けているような気がします。
 空耳は統合失調症の前触れらしいので、気をつけなきゃ…でも今もパソコンの裏あたりから、あの音が…。
 あ、いけね。ブラウザの別タブでYoutubeの動画を流しっぱなしでした。
 前回記事のコメントで、yomachi_1971さんにご紹介いただいた動画、
http://www.youtube.com/watch?v=GVZUjePOUn8
 岩波映画1960年制作の映画「ディーゼル特急」です。おそらく当時の国鉄のPR映画で、私も当時万世橋にあった交通博物館の3階のホールで、見た記憶があります。
 タイトルのとおり、1960年(昭和35年)の10月ダイヤ改正で上野-青森間を走りだしたキハ81系ディーゼル特急「はつかり」が主人公ですが、これがまた垂涎の映像のオンパレード。
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 単線時代の東北本線を走る「はつかり」を、総天然色(!)で、運転台や客室、走行シーン、果ては走行中の「床下」シーンまで交えて、堪能できるのですが、裏メニューとして「内燃動車の歴史」のくだりで、九十九里鉄道のキハ102(ガソリン動車)や木原線のキハ04/07(機械式気動車)、さらにはキハ17や25(濃紺にクリームの旧塗色・液体式気動車)なんてのがゾロゾロと出て参りまして、千葉の爺鉄としてはもう感涙にむせぶばかりなのでありました。
 そのあたりは、ノーガキに言葉を費やすより、映像で見ていただくのが一番ですね。

 そこで私も何かあやかり企画を…ということで「私が撮った『ディーゼル特急はつかり』はどうだろう…と考えたのですが、総天然色の動画に対するに、くすんだモノクロの昔写真ではあまりに分が悪い。ま、そこいらは深く考えずに…。

 まずは上野駅での「はつかり」から。
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 昭和40年2月の撮影です。高架ホームに佇む下りはつかり。特徴あるボンネットスタイル。実のところ、子供心に(電車の)151系に較べると垢抜けしていない印象でした。ブ◯ドッグなんて、ありがたくない愛称もありましたね。
 そんな陰口もどこ吹く風。これから始まる青森まで700キロあまりの長い旅路に、9両編成14基のDMH17Hエンジンもガラガラと身震い(?)しています。

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千チハ~千葉気動車区の思い出 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 小学生の頃、父は小さな軽印刷屋を営んでいました。和文タイプで原稿を打ち、電動式のガリ版の親玉のような機械で印刷する…といっても、今の方にはなにがなにやら…でしょうが。
 50年前にはそれなりに旺盛な受注があったようで、自宅の一角の作業場とは別に、千葉に「分室」を設け、タイピストが常駐していました。そこで千葉と市川の間を原稿(原紙、と呼んでました)が頻繁に行き来するんですが、まだ宅配便など無い時代です。ハンドキャリーの「クーリエ」に抜擢されたのが私(笑)。小学校5,6年の頃には、学校から帰ると「ちょっと千葉まで」よくお使いに遣らされたものです。
 鉄に目覚めつつあった小学生の私、もちろん電車に乗れるのが嬉しくないわけはなく、行きは国鉄、帰りは京成(このパターンが多かった)の小旅行を楽しんでいたものです。

 鉄ガキにとって、車窓風景のハイライトは車両基地。市川から千葉の間には、津田沼に国電基地の「津田沼電車区」がありましたが、これは総武線の線路からは奥まった位置にあるのでよく見えない。現在の千葉県内を走る電車の一大拠点となっている「幕張車両センター」は、幕張本郷駅ともども影も形もない頃です。その代わり「気動車王国」と呼ばれていた当時の千葉を代表する車両基地が、稲毛と西千葉の間、総武線線路の北側に広がっておりました。その名も「千葉気動車区(千チハ)」。
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 千葉行きの国電が稲毛駅を出ると、鉄ガキは進行左側の車窓に釘付けです。しばらく走ると洗滌線に並ぶDCが見えてきて、係員が手洗いで車体を洗っています。その先は検修庫、さらに10本余り並んだ留置線に、ズラリと並んだDCが夕方ラッシュの出番を待っていました。その留置線が一本にまとまった出区線が本線と合流すると、電車は西千葉の駅に到着します。

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旧聞三題 [番外]

昨年11月「校庭の機関車、工場の機関車」と題してご紹介した和光市の学校の校庭に保存されている蒸気機関車C1285。その近況の写真が、higeraman氏から送られてきました…っていっても、メールの日付を見ると、なんと3月末のこと…。
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 せっかく画像を送ってもらいながら、すっかりほったらかしにしっぱなしで…。
 遅ればせながら、ご紹介かたがた、あわせてちとタイミングを失してしまった近況をご報告させて頂きます。

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Hey.Heyポール~銚子電鉄昭和39年 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 前回に続き、昭和39年6月の日帰り旅。荒廃した九十九里鉄道の車両群に衝撃を受けながら、先に進みます。

 東金線と総武本線の乗換駅、成東。C58149(佐)が牽く上り列車が停車中…。
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 機関車の前で遠くを眺めながら佇む助役?さん。その視線の先に… 下り千葉発銚子行きの列車が、C57164(岩)に牽かれてやって来ました。
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 さきほどの助役さんは、C57に向かって右腕を突き出していますが…。
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 このあたりは当時はタブレット閉塞で、下り列車が携行してきた日向-成東間のタブレットを、すばやく上り列車に渡すため、ホームに停車後ではなく、まだ走行中のこの位置で受け取っているんですね。なんかカッコいいな、と子供心がときめきます。

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夢の跡~九十九里鉄道廃車群昭和39年 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

手元に「昭和39年6月18日」と撮影日付の入ったネガがあります。元来、整理能力のない私、日付まできちんと書かれていることはめったにない。
 こういうのが見つかると「ヨシヨシ、それでは6月18日の更新にぶつけて…」なんて目論むわけですが…今日は…しまった、もう6月19日だ!」
 いつもこんなんばっかであります。ほとほと、自分のアバウトさに愛想が尽きる、というものですが、来年まで寝かせたところで、同じ事を繰り返す可能性大…。
 というわけで、ちょっとおマヌケですが、久々の「昔鉄」は、中学2年生の時の「地元千葉県日帰り鉄旅」の記録を御覧ください。

 朝早く、千葉駅を発った房総東線の下りDC。途中駅の風景です。
 交換する上り列車の先頭に立つのは、配属間もないステンレスのキハ35900番台。この車両に向けてシャッターを切ったはずですが、いくらなんでもタイミングが早すぎ…でも怪我の功名? で、当時の駅前の風景なんかも写り込んでいます。
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 さて、この駅はどこ?そこで、写真をアップにしてみると…右側の電柱の駅名表示が、ひらがな3文字なので、「誉田」ですね。かまとり、ほんだ、とけとこの区間の駅名は文字数が違うので、判別に助かります。
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 このあたり、複線化、電化、市街地化の進展で、現在はまったく様相が変わっています。木造の駅舎、上り列車から降りて改札に向かうOLさん? 構内踏切で、列車の通過を待つ女子高生。ローカル色いっぱいながら、朝の活気を感じます。

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