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ダイヤ改正の頃~その1~昭和40年秋、上野&鶯谷 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 1960年代の国鉄は、実によく「ダイヤ改正」を行なっていました。年々増える一方の旅客、貨物の輸送量に追いつけ、追い越せとばかり、電化区間は著しく伸び、幹線系統の線増工事が進み、その工事が完成する都度、ダイヤが改正され列車が増発されるのです。あわせてエネルギー革新の流れの中で、蒸気機関車はディーゼルや電気機関車に変わり、優等列車が増えていき…まったくめまぐるしいばかりの変化の時代でした。
 どういうわけか、この頃は大きなダイヤ改正は10月1日、と決まっていて、この時期になると消える列車を追いかけ、新しく生まれた列車を見に、と昭和の鉄ガキも忙しくなります。

 昭和40年の10月1日にも、大きなダイヤ改正がありました。
 このときは鹿児島本線が熊本まで、北陸本線が富山-糸魚川、東北本線が仙台-盛岡間の電化が一挙に完成し、夏に電化が完成していた中央本線辰野-松本間も本格運用が始まり、主要幹線の軌道強化工事が完成し最高速度が110キロ化…と、全国に特急網が張り巡らされた昭和36年10月1日改正に次ぐ規模の大きな変化がありました。

 その頃、東北本線の大型蒸機にヤラれていた私、仙台-盛岡電化となれば、その区間のみで運用されたいたC59は? D62は? と大いに気になるところ。さらに電化の見返りのように、10月からは常磐線回りでC62が牽引する寝台特急「ゆうづる」が誕生する! 
 ああ、見に行きたい…と気は逸れどもなにしろ中3坊主の身分、仙台、盛岡は遥か遠く、一応翌春に高校受験を控えている身とあれば、親に「行きたい」などと言い出せるわけもありません。
 まぁ、実際のところは、電化というインフラが完成しても、それに見合った車両…電車とか電気機関車とか…を一気に揃えるほど、国鉄の財政は潤沢ではなく、しばらくは架線下を蒸気機関車が走る光景が、あちこちで展開してたわけですが…中3のガキ鉄としては身近な場所で、ダイヤ改正を実感するしかなかったわけであります。

 そんな昭和40年9月末の某日、学校の授業を終えて、ダッシュでやってきたのは上野駅。当時の地平ホームの一番東側、16番線にディーゼル特急の「つばさ」が停まっていました。
01上野駅つばさ.jpg


 キハ82系列で組成されたこの特急は、昭和36年10月改正で奥羽線回り上野-秋田間にデビュー、2年後の38年10月改正で(実際は車両落成時期の関係で12月から)上野-盛岡間にも走り出し、秋田、盛岡編成を上野-福島間併結した堂々の14両編成で走り続けていたのでした。
 盛岡まで電化されたことで、「つばさ」の盛岡編成は、10月からは481系電車を使った特急「やまびこ」に生まれ変わり、同じく上野-仙台間を走っていた気動車特急「ひばり」も電車化の上、2往復に増発され、東北本線に初めての「電車特急」が走りだす。

 やはりこの改正で、上野駅から姿を消すのが特急「白鳥」。
02.特急白鳥.jpg


 上野を出発、信越本線を経由して、直江津で青森からやってくる「白鳥」と併結し、北陸本線を大阪に向かうという「全区間乗り通す人がいるんか?」という列車でしたが、10月からは上野-金沢間の「はくたか」として独立することになります。

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ひと山越えれば小湊線~国鉄色DC欲張り撮影行 [ちょっとおでかけ鉄]

 はじめての久留里線撮影行は、3両しかないキハ30のうち2両が運用に就いている、という幸運に恵まれて充実したものになりました。
 だがしか~し…、朝の4時起きでクルマを走らせたせいでやや睡眠不足に加え、9時を回った頃にはおそらく30度超えしていたと思える、真夏と変わらぬピーカンの天気の下の野外活動、お昼近くには早くもヘバリ気味なんであります。
 遠目にもテッペンの心許なさが目立つ私の脳天を、容赦なくジリジリと焼く太陽。
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 お目当てのキハ30も、この列車が久留里で折り返し、木更津に戻ると夕方まで入庫してしまう模様です。
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 さて、午後はどうしようか。

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久留里線欲張り撮影行 [ちょっとおでかけ鉄]

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 すでに皆様ご案内のとおり、千葉県下木更津から上総亀山を結ぶ久留里線にこの秋から新型気動車が投入されることになり、国鉄時代から活躍を続けてきた3両のキハ30をはじめ、私の目には十分にモダンな新車に映る昭和&国鉄末期に製造されたキハ37、38の一統が姿を消すことになっています。
 久留里線は千葉県にありながら、東葛飾地区に住む私(千葉都民、というヤツです)からするとビミョーな位置にあり、齢60を越えた今の今まで、乗ったことも撮影をしたことすらありません。私がそれなりに千葉の鉄道を追っかけていた40年前にはとっくに無煙化を完了し、貨物列車もDD13が牽いていたそうです。房総ならどこでも見られたキハ16/17の時代から、キハ35系一色になって…と、まぁわざわざ見に行く、乗りに行く事もないまま現在に至る…と。
 本ブログを立ち上げ鉄道趣味に舞い戻って一年半、生来のものぐさと、腰の重さでもたもたしているうちに113系電車は姿を消してしまい、いままた久留里線からも昭和の車両がなくなろうとしているわけで、やはり千葉県民鉄としては、昭和のキハの姿を見ておきたい。
 某鉄道趣味誌の7月号「久留里線特集」で予習には励んでいたのですが、さっぱり頭に入らないまま。そうこうするうちにもはや9月も中旬、猶予の時間はあんまりありません。
 そこに強力な援軍到来。拙ブログにも何回か登場してもらっている若き鉄友(といっても50代)Y君。実は彼は生まが久留里で、今は東京暮らしですが生家もまだ久留里に残っている。本人曰く「まだ誰も撮影しない頃から久留里線を撮っている」そうで、強力型試作気動車キハ60の一統が、晩年久留里線を走っていた頃を知っているというから凄い。彼がついてくれるなら撮影地もお任せでオッケーだね。
 もっとも後で判明したことだけど、生家にはたびたび行ってるけど、沿線で撮影するのはン十年ぶりだそうで…。それで多少情報が古かったりするのだけれど、まっ、いいか。

 久留里線を撮るなら、やはり一本だけの4連や、2連の基本にキハ30が確実に増結される朝の時間帯を狙いたい…、ならば現地には6時に着いていたい、ということで、Y君には拙宅に前泊してもらい、朝の4時半出発。まだ昏き京葉道路~館山道を一路クルマを走らせ一般道に降りると、久留里の街を抜け、Y君の生家にほど近い久留里-平山間の線路際に立ったのはちょうど6時。周りを囲む房総特有の穏やかな山並みから、ちょうど朝日が射しこんできます。
 ほどなく遠くの踏切の警報機が鳴り出すと、顔を見せたの上総亀山を5時59分に発った922D。久留里線の朝の2番列車です。国鉄色のキハ3098を先頭に、キハ38を2両つないだ3両編成。
01_922DKi3098.JPG


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立石さま [ご近所鉄(京成電車など)]

 毎度ネタにさせていただき恐縮の極みなのですが、敬愛するCedarさんのブログ「Cedarの今昔写真日記」の最新記事「昭和の京成沿線案内図(その1)」
http://cedarben.blog.so-net.ne.jp/2012-09-10
 は、千葉で育った昭和の鉄ガキには、感涙モノの企画でありました。
 昭和30年代、京成電車の車内(駅)に掲出されていた、イラストマップというのか、絵地図というのか、当時の京成電車の路線図に沿線の名所旧跡観光地、その土地の名物の数々が描かれていて、それがまた50年以上前の「時代」を物語っています。

 詳細はCedarさんの記事を見ていただくとして、私が思わず反応してしまった「重箱の隅」的ネタ…が、記事の上から4枚目の図版、京成上野線と押上線の拡大図です。
 地図全体に盛りだくさんに描かれた「沿線名所」、なのに押上線沿線には、工場のイラストがポツンと一つだけ描かれているだけ…に苦笑してしまったのですが、よく見ると京成立石駅のそばに、小さな「立石さま」の文字が…。

 立石「さま」ってなんだよ!?

 京成立石が城東下町の呑み助の最大の「聖地」であることは論を俟たないところです。その聖なること、ヒンズー教徒のバラナシ、イスラム教徒のメッカに比肩するほどで、下町の呑み助たちは、聖地巡礼を夢見ながら日々の辛い労働に耐えている。そんなわけですから「立石」なんて呼び捨てにするのはリスペクトが足らない、敬称をつけなさい…と言われるなら、「さま」でもなんでもつけちゃいますが…どうもそういうことではないらしい。

 というわけで昨日夕刻近く、「立石さま」探しに降り立ったのは京成青砥駅。
 上野行き特急の反対ホームに停車していたのは京急新1000形。ナンバーを見るとトップナンバーで、これはひょっとして初期のジーメンス「ドレミファインバーター」搭載車?
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 発車まで数分待って、「ド~レミファソラ~」と軽やかに奏でながら発車していく1000系を見送ります(酔狂)。

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自宅航空管制室 [番外]

一昨日の朝、自宅で遅めの朝食をとっていると、頭の上から賑やかな音が聞こえてくる。羽田空港へアプローチしていくヒコーキの発するサウンドであります。行政的には「航空騒音」なんですが、この音が嫌いでない私には、ぜんぜん「騒音」ではない。
 千葉県市川市の我が家から、羽田空港までは直線で20キロあまりでしょうか。羽田に着陸するヒコーキは、このあたりではかなり高度を下げており、おそらく飛行高度1000メートルほどで、エンジン騒音が著しく少なくなった昨今のヒコーキとはいえ、けっこう賑やかに通過していきます。

 さっそくPCを立ち上げ、このところずっぽりとハマっているWEBページを開く。
http://www.flightradar24.com/
 世界中のヒコーキのレーダーで捉えた飛行状況を、リアルタイムでマップ表示するというこのサイト。ヒコーキファンにとっては、まさに夢のようなサイトなのでありますが、詳しい説明は後回しにして、まずはマップを自宅近辺にフォーカスしてみます。
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 ちょうど鎌ヶ谷市と市川市の境界あたりで、一機のヒコーキが羽田に向けて旋回を終わったところ。(赤いヒコーキマーク)画面左下、黄色いヒコーキのアイコンがぐちゃぐちゃとあるあたりが羽田空港。
 このヒコーキは全日空ANA294便。鳥取空港を発って日本列島の太平洋側を東進、房総半島を縦断する形で北上し千葉市上空を通過、千葉ニュータウンの辺りで西に進路を変え、さらに鎌ヶ谷市上空で左旋回、羽田空港B滑走路に、一直線で向かう針路に乗ったところです。緑色の航跡は既に通過してきた飛行ルートで、赤の直線は私が書き加えた羽田空港へのルート、赤の×印は私の自宅の位置です。

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「ゆうづる」を牽けなかったC62たち~仙台機関区のC62 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 昭和39年の夏休みの撮影行。
 中学2年生のこの頃は、まだ泊りも夜行日帰りも許されていません。両親とは朝早く家を出て、その日のうちに帰ってくる、しかも同級生の鉄友・A君と同行するという約束です。でも普段は家の近所でしか撮影できない中学鉄ちゃんとしては、見たいもの、撮りたいものが山のようにある。それはA君も同じで、鳩首会談を重ねても、なかなか行き先や行動計画の結論が出ません。
 結局夏休みのある日、二人が上野駅から乗り込んだのは、一番の常磐線電車準急「ときわ」でした。
 まだ新車の匂いが残る451系電車の旅は、快適そのもの。電車は快調に北上を続けていきます。
 常磐線の電化は昭和36年(1961年)6月に取手-勝田間、37年10月に勝田~高萩間、38年5月に高萩~平間、同年9月に平~草野間と急ピッチで進捗していましたが、昭和39年の夏には、まだ蒸気機関車を置き換える交直流機EF80の数が出揃っておらず、貨物列車には、蒸機牽引の列車が残っていました。とりわけ水戸を過ぎるとその数が一挙に増えたように感じます。
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「ときわ」の終点は平(現いわき)。電化区間はこの先、次の草野までですが、運転上の電化非電化の接点は平。此処から先、常磐線は一部のDC列車を除けば、旅客列車の過半と貨物列車の全てが蒸気機関車の牽引となります。

 平駅の下り本線の仙台寄りにある機待線にお目当ての機関車が停車していました。
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 C6220。常磐線の取手以北の電化が完成するまで、尾久機関区に所属して常磐線列車牽引の任に当たっていたC62は12両(21号機は37年事故廃車)。電化の進捗に従って37年には全機、水戸機関区に異動したものの、すぐに平までの電化が完成して新鋭のEF80においやられるように、活躍場所を常磐線北部に求め、6両は平機関区へ、そして6両は遠く仙台機関区に分散異動したのです。
 C6220は仙台に移ったC62のうちの1両。このときの配属地の違いが、12両のC62の運命を大きく分けることになったのでした。

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真夏の小湊鐵道・五井機関区 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 昭和41年(1966年)夏、珍しく房総西線の列車に乗った。
 前回の記事で房総東線を扱ったので、バランス上(!?)房総西線ネタも欲しいなぁ、夏が終わる前に…。なんて写真を漁っていたら、出てきたのがこちら。
 確かに房総西線の上り列車ですが、撮影場所は蘇我駅。貫通扉を開け放ったキユニ19が夏らしい風情…でしょうか(!?)。
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 千葉に向け出発した上りDCと入れ替わりに下りホームに入ってきたのはC578(佐)が牽く房総西線の下り客車列車。
02C578.jpg


 まだ午前中の閑散時間帯に、長編成の下り客車列車が走っているのは、おそらく朝ラッシュ時間帯に千葉に着いて、普段は夕方まで昼寝している客車を、DC列車の代走として館山まで持って行き、併せて午後、家路につく海水浴客向けの上り輸送力列車として走らせるという、虎の子の急行型DCが総動員で臨時急行に召し上げられてしまう、千鉄局の夏ダイヤ苦肉の策の運用なのでしょう。
 まだ京葉線なんて影も形もなく、やたらと空が広い蘇我駅から、この列車に乗っていざ房総西線の旅へ…と思ったら、3駅ほど乗ったところで降りちゃいました。

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勝浦は今日も暑かった~昭和42年、房総東線 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

お暑うございます。
 この一週間ばかり、朝の9時前にはもう、窓を開け放った部屋の温度が30度を超える日が続いています。少し前には、高空に秋の気配を感じる筋雲が見え、「そういえば虫の声が聞こえ出しましたね」なんてご近所の方と話していたんですが、昨晩なんぞは夜の9時というのに、やかましいほどセミが泣き止まず、虫の声どころではありません。
お天気マーク.jpg


 ↑7~8月の東京の天気です。7月20日過ぎに数日、肌寒かった日が続きましたが、24日に最高気温が30度を突破して以來ひと月あまり、ずっと30度超え…おっと一日だけ29度というのがありましたが…それも連日35度に限りなく近い気温の日が続いている。
 しかも雨マークが一日もない。この表は、毎日15時の時点での天気と気温を表したものなので、パラッと雨が降った日が、なかったわけではないですが、それにしても見ているだけで暑っ苦しくなるような表ですね。

 そんなわけで、まだまだ続く夏ネタ。今回は昭和42年(1967年)の夏、高校のクラブの合宿で、外房の勝浦に行った時の写真をお目にかけます。
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 上総一ノ宮駅に進入してくる臨時急行「そとうみ」。7両編成の両端の「皮」の部分だけキハ26、真ん中の5両「あんこ」の部分はキハ45という、遜色急行なのか、それなりに整った編成美というのか、よくわからない列車であります。

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灼熱シリーズ!? ここはどこ? [番外]

 高校時代の友人で、今も現役で世界を股にかけるビジネスマン、仲間内では「島耕作」の異名を持つF氏からメールが届きました。
 文面は、「おはようございます。見たことある?」とそっけないけど、画像ファイルが添付されている。
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 朝からクイズですか(笑)。ホテルの部屋らしきところから(窓が汚いなw)見下ろしたような写真。機関車と客車が写っている。む…なにかヒントが隠されているのか?
 ふと画像を拡大してみると、左上、機関車の上辺りの路地に、黄色い屋根のミゼットタイプのクルマが停まっている。
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 なぁんだトゥクトゥクがいるじゃん。ならばこの場所はタイ。

「バンコクはマッカサンの構内を見下ろせる高層ホテルからのショットかしらん。今回はバンコク出張?」なぁんてメールを返しておいたのでした。

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呑み鉄再び…灼熱の銚子電鉄 [ちょっとおでかけ鉄]

 唐突ですが、旨そうなイワシの刺身でしょう?
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 こちらはアジの「なめろう」。これも堪えられない。
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 何を隠そう、私は「青魚大好き」人間であります。今の時期ならイワシやアジ、秋にかけてはサンマ、冬場にかけてはサバ…。旬の青魚が美味いのはいうまでもありませんが、私の場合、旬へのこだわりはあんまりなく、例えば家人がたまに夜、留守にして「ご飯適当にお願い」なんて言われると、しめしめとばかりストックしてある一缶98円のサバ缶を嬉々として開け、悦に入っているんだから、味覚と言ったっていい加減なもんでありますが…。
 それでもこの時期のアブラの乗ったイワシの旨さ、それも水揚げ高日本一を誇る千葉の漁港近くでいただくイワシは、これぞキング・オブ…とまではいかなくても青魚好きには関脇、大関クラスの味覚です。

 そんなイワシ、アジにありつくために、立ちくらみするほどの真夏の炎天下、爺鉄どもの汗まみれの奮闘(笑)があったのだ…というわけで。

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