子供の頃、私の父は車好きで~というおはなしは以前にもしましたが~よく家族をドライブに連れだしてくれました。私は既に鉄道大好きなガキで、ドライブよりも出かけた先で鉄道の写真を撮ることができるか、がもっぱらの関心事、車窓に線路が見えてくると「ちょっと待ってて…」と家族を車で待たせ、やってきた列車(これがなかなか来なかったりする)と一枚パチリと写して、またドライブを続ける…なんてことをやってました。
 この写真はそんな一枚~なので、この場所で撮った写真も一枚きりです~外房線、当時は房総東線の土気-大網間にあった通称「土気の切通し」で撮影した気動車。私の立っている位置は、千葉と外房を結ぶ「大網街道」の道路脇で、画面奥の大網方向から25‰の勾配をよじ登ってきたDCは、切通しを抜け、トンネルで大網街道の下をくぐって土気駅に向かいます。(写真1)

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 この切通し、明治中頃、房総鉄道によって建設された当初はずっとトンネル区間だったそうです。しかし25‰という急勾配を蒸気機関車でよじ登った頂上近くに長いトンネルがある、というのは運転上不都合だったのでしょうか。おそらく煤煙を軽減する目的で、戦後昭和26年からトンネル上部の覆土を撤去する工事を行ない、トンネルはこのような深い切通し区間に生まれ変わったのです。地盤の関係か、切通しの途中に短いトンネルも残っていますね。

 もっともこの区間が切通しだったのは20年足らずのことで、その後、外房線の複線電化が昭和47年(1972年)夏にに完成。この区間は旧線の北側を回り込む形で、新しい複線トンネルができ、同時に大網駅も、移設して高架化、千葉から外房に向かう列車は大網でのスイッチバックを解消、スルー運転できるようになりました。
 それからはや39年…列車が走らなくなった切通し、というのはどうなるんでしょう? 線路として使われなければ、地形を不自然に切り裂いたV字谷。

 天気はぱっとしないけど、湿度が高く蒸し暑い一日、40何年かぶりに土気に行ってみました。 現在の土気駅です(写真2)。洒落た駅舎が建っていますが、これは大網街道に面した北口。南側は大規模な宅地造成が行われ、駅前も郊外私鉄のニュータウン駅、といった風情。バブルの象徴とも言われた「チバリーヒルズ」もこのあたりにあります。
03土気駅なう.JPG


 昭和38年の土気駅(写真3)です。キハ35以下の下り普通列車を待たせて、大網方からやってきた準急「外房」が通過していきます。もちろんまだ単線。電柱に掲示された△マークは通票の形状確認のためのものでしょう。
02旧土気駅.jpg


 50年近く前の街並みの面影が残る大網街道を、1キロあまり大網方向へ。道路の形状にどことなく見覚えがあり「このあたりかなぁ~」。しかし、切通しはあとかたもなく、平坦な土地となっていて、老人向け介護施設が建っています。(写真4)
04切り通しなう.JPG


 ここでもう一度、最初の写真を。切通しの谷の右上、跨線橋の右手の森の手前に祠のようなものが見えます。(写真5)
05再度切り通し.jpg


 アップにするとこんな感じ…。(写真6)
05-b陸橋と山門.jpg


 写真4の右側に見える森に沿って、奥に道が伸びています。その細い道をたどっていくと、写真6に見えていた祠…実はこれ、山の上にある寶珠山善勝寺というお寺の山門です…がみつかりました。(写真7)
06山門と橋.JPG


 そしてなんと! 山門のわきには切通しにかかっていた陸橋がそのまま残っている。いや、陸橋の高さに揃えるように、切通しは埋め立てられているので、これはもはや橋の機能はまったく果たしていない謎の遺構。
07橋正面.JPG


 それにしても、深さ20メートル以上はあっただろう、切通しは見事なまでに埋め立てられて、もとの地形に戻されています…。トンネルを掘り、切通しを開削し、そして埋め立てる…かのケインズ先生が大喜びしそうな公共工事の見本…違うか?

「橋」を反対側から見る。やっぱり不思議な光景です。埋め立てたときに橋を撤去することなく、たぶんこの下にはプレートガーダーもそのまま残っているんでしょう。そのほうが基礎もしっかりしていそうだし…。(写真8)
08橋を反対側から.JPG


「橋」のたもとの標柱。橋の名前が掲げられていただろう銘版は撤去されています。あ、隣に写ってる黒いのはウチの末っ子です。気になさらないでください。(写真9)
09橋の標柱.JPG


 善勝寺の山門。なかなか風情がありますね。この先には苔むした石段の参道が山の上まで続いています。(写真10)
10山門.JPG


 せっかくなので、お寺をお参りしてきました。(写真11)
11寶珠山善勝寺.JPG


 山の上から見た大網、九十九里海岸方面。かなりの高度差があることがわかります。(写真12)
12大網方向を眺める.JPG


 このコンクリートの防護柵も、切通し時代の遺構でしょう。右側の草生したあたりが、断崖絶壁の谷底だったわけですから…。(写真13)
13コンクリ柱.JPG


「橋」を渡って山の中に分け行っていくと、やがて道はうっそうと茂った木々の間を下っていきます。(写真14)
14山道.JPG


 急な坂が延々と続き、ちょっと心細くなった頃、道が突然開けると外房線を跨ぎ越す跨線橋の上に出ました。

 いい感じのカーブの途中にあり、これ幸いとカメラを構えますが…金網と、伸び放題の夏草と、ごっつい架線柱にはばまれて…。

 E257系500番代の「わかしお」が坂を登ってきました。(写真15)
15_257系わかしお.JPG


 同じ電車の後追い。向こうに見えているトンネルで、土気駅手前まで一気に抜けていきます。(写真16)
16_257系わかしお後追.JPG


 ここで残り少ない113系でも来てくれたらラッキーなんですが…普段の心がけの悪い私にそんな僥倖は訪れるはずもなく…通過する電車はこいつばかり。(写真17)
17_209系.JPG


 もう少し山を下って行くと、こんな光景が…。千葉の餘部?(写真18)
 通過する電車は京葉線直通の233系。こいつももうちょっと前に来ていたらブルーの201系だったんだろうな…。
18コンクリート橋.JPG


 大網駅近くまで降りてきました。こころなし、山の中より気温が高い感じです。(写真19)
19大網駅近く.JPG


 大網駅。スイッチバック解消以來、来るのは初めてじゃないかなぁ…。左の防風壁に覆われた駅舎は外房線、右側の開放的?なホームが東金線…高架の吹きっさらしのホームって、ちょっと新鮮ですね。(写真20)
20大網駅.JPG


 せっかくここまで来たので、旧大網駅の跡をみてみようと街中を走っていたら、道路の脇に腕木式の信号機を発見。ここに大網駅ありき。(写真21)(写真22)
21腕木信号機01.JPG

22腕木信号機02.JPG


 酷いアングルですが、旧大網駅の写真が見つかりました。(写真23)
23旧大網駅.jpg


 房総東線はほとんどの列車がDCで、エンド交換するだけとはいえ、スイッチバックの大網駅は要衝駅という趣がありました。この駅で降りて白里の海岸へ海水浴に行ったこともあったなぁ.。
 今見ると旧駅の跡地は案外狭かったんだなと感じます。(写真24)線路は東金線。奥が成東方面で、手前側左方向が千葉方面、右方向が茂原方面。
24夢の跡.JPG


 茂原方面へと続いていた線路跡。スイッチバック解消後も佐倉、成東方面から茂原方面への貨物列車が設定されていたので、連絡線の形で三角線を形成するように残っていたはずですが、いまは夏草に覆われて…。(写真25)
25外房線跡.JPG


 たぶん、写真25と同じ辺りで撮影したと思われる房総東線のDC列車です。左側にわずかに千葉方面への線路の築堤が見えていますね。
26旧線を走るDC.jpg


 というわけで、一枚の写真からちょっぴり「廃線跡マニア」な気分を味わってまいりました。

外房線 土気 大網 切通し 廃線跡

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