「小さく前へならえ」の謎 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 電車の編成美の新概念、「小さく前へならえ」は、既に皆様御存知かと思います。
 え!? ご存じない。それは是非ともCedarさんのブログ記事
http://cedarben.blog.so-net.ne.jp/2012-06-23
 をご覧くださいませ。

 こういうユニークな視点と切り口、凡庸な私なんぞ思いもつかないところですが、かてて加えてネーミングの妙にもため息が出るばかりです。

 あ、よろしかったらご覧になったあとはこちらに戻ってきてくださいね。まだ続きがありますんで…。
 あ゛ー、もう半分以上の方があちらへ行きっぱなしです。しょーがない、続けます。題して「私が見た『小さく前へならえ』」

 東京オリンピックがあった昭和39年のこと。モノクロ写真で見る空には、真夏のような雲が浮かんでいますが、走る電車を見ると窓が全開ではないので、もう少し早い時期かも知れません。場所は総武線新小岩-小岩間。総武線の上り電車を後追いで撮影しています。手前の線路は総武線の下り線。画面右側は新小岩操車場の東のはずれで、画面奥に小さく操車場を跨ぐ小松橋のトラス橋が見えています。
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 39年当時としては珍しくもない旧国の8…いや、7両編成です。最後尾はクモハ41だと思いますが、2両目はモハ72?

 画像を拡大してみます。
 クモハ41の次位の車両に、乗務員扉が見えます…ってことはクモハ73?
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 なんと片運転台のクモハが2両、同方向を向いて連なっています。う~む、これは立派な『小さく前へならえ』。


 昭和39年頃というと、総武線には101系が投入…っていっても、山手線に103系が投入された玉突きで移ってきたんですが…され始めた頃。
 まだまだ旧型国電が圧倒的に優勢で、クモハ73、モハ72、サハ78なんて旧ロクサン系の流れが主流ではありますが、まだまだ戦前型3扉のクモハ41、クハ55、サハ57も多数、編成の中に組み込まれておりました。
 これらが6両の基本編成に、千葉寄りに2両の付属編成がつく、という8連で運行されていました。昭和35、6年頃までは付属の2両は、昼間時間帯は解放されて基本の6連で運転されており、私が小学生のガキの頃は、朝ラッシュが終わると、市川駅で付属2両が切り離され、本八幡よりの山側にあった留置線に3、4本をまとめて留置しておき、午後遅く、夕方ラッシュの始まる前の時間帯に、上りの6連の電車に、再度増結して8連となって上っていく、なんて運用をしておりました。でも39年頃には、もはや終日8連が総武線旧国の基本運用になっていたわけです。特に戦前型のクモハ41は千葉向き。クハ55は御茶ノ水向き一辺倒でしたから、付属編成は千葉側からクモハ41+クハ55で組まれているケースが多かったと思います。↓こんな感じですね。
03.jpg


 ということを基本に、冒頭の写真を見直してみると、この電車は基本6両の千葉側に、クモハ41を1両だけ連結した7両編成でしかない。そのせいで、『小さく前へならえ』が出現したわけですが、付属編成の相方のクハはどこへ行ってしまったんでしょう?

 …なんてことは、去年ブログを初めて以來、古い写真をスキャンして、さらに傷だらけのネガを拡大してゴミや傷を補修している最中に気づいたことなのでした。撮影した50年近く前には、まったく気づいていなかった。

 基本の6連に、両運転台のクモハ40をくっつけた7連、というのは見たことがあります。だけどこの頃にはクモハ40は津田沼電車区から消えていたよなぁ…。

 たぶん同じ編成と思われる電車を、もう一枚撮っていました。今も新小岩操車場を跨いで南北を結ぶ小松橋からの撮影。動体ブレしちゃってますが、上り電車のクモハ41の次位はクモハ73のようです(パンタが異常接近してますね)。
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 気になったのは、クモハ41の方向板(前サボ)でして、なんだか総武線の電車としてはおかしい方向板が掲出されている。
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 当時の総武線の旧国の方向板は、ご覧のような茶色の中に黄色い菱形があって、そこに行き先が書かれていました。なのに問題の『小さく前へならえ』編成は、白地に行き先?が書かれているだけ…。
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 …とすると、この『小さく前へならえ』編成はイレギュラーな臨時電車、ということになります。でもなんで8連のうち、付属編成のクハを外して7連にしたんでしょう?

 ここからは想像です。総武線の基本的な8連を崩して、7連に組み替えて乗り入れた行き先はどこか? 
 青梅線や五日市線は、当時はまだ17m車が2連や4連で走っていた頃ですよね。中央線の高尾から先は、わざわざモハ71/72やモハ100の800番台を作っていたわけで、低屋根のモハしか入れなかったはず。

 改めて、クモハ41の方向板を見てみると、動体ブレしているものの、白地に浮かんだ行き先文字が5文字、あるいは6文字のように見える。ひょっとして「東・京・競・馬・場・前」?
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 Wikiを見てみますと、東京競馬場前駅のある下河原線は、閑散時は両運転台のクモハ40の単行運転だったが、「ラッシュ時及び競馬開催時には101系の5両編成で運行されていた」とあります。さらに「競馬開催日には東京駅や総武本線からの直通列車が101系6-7両で運転」とも。
 さすがに総武線の旧国が乗り入れていた、という記述はありませんが、可能性としては大いに有りそうです。つまりMAX7両が、下河原線に乗り入れられる限界だったため、わざわざ総武線付属編成からクハを抜いた7連に組み直し、下河原線に乗り入れさせていたのではないか、という推理をしてみるわけです。
 そしてこの『小さく前へならえ』編成も、そのために出現したのではないか?

 こういう「小ネタ」は、調べたくてもなかなか資料が見つかることはないのかもしれません。まぁマニア以外には「どーでもいい」ことなので、ご記憶の方も少ないと思われますが、もし「総武線に出現した『小さく前へならえ』7連の謎の真相」をご存じの方がおられましたら、ご教示いただければありがたく存じます。
 つい先日も、斯界の大先輩む~さんに「常磐線電車が有楽町まで乗り入れていたんだけど、いったいどの線路でどうやって折り返していたんだ」という50年来の謎を、あっさりご教示していただきました。50年近くも疑問だったことを、こうやって教えていただけるのも、ブログをやっている効用かと思いますが、それ以前に50年近くも疑問を疑問として放ったらかしておいた時分を恥じるべきか…。

 総武線から下河原線に臨時電車を走らせる、というのは普通に考えて大レースのある日だったのでしょうね。ということは、今回掲載した写真、東京競馬場で大レースが行われる5月頃、それも昔も今も変わっていない最終週日曜に行われるダービーの当日、と考えてもいいかもしれません。

 因みに昭和39年のダービーを勝った馬は、史上2頭目、戦後初の三冠馬となったシンザンなのでした。
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maipenrai

プントさん、xml_xslさん、hanamuraさん、あるまーきさんsuzuran6さん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-07-10 12:46) 

京阪快急3000

はじめまして。京阪沿線在住の1970年代生まれのファンのひとりです。

む~さん様のブログを拝見していて、最近気になりまして、ブログの方を拝見させていただきました。

「旧型国電」もこうしていろいろ「考察」する事もまた楽しいかな、と思いました。

あと、過去の記事ですが、京成の「リバイバルカラーの3300形撮影(計画)(?)」の記事も拝見しました。

あそこまでされると、まるで「本職のスジ屋さん」だと思いました。

ちなみにここだけのお話ですが、自分の沿線の京阪は親切でして、「このHMの電車を撮影したいのですが・・・」と立ち寄った駅の「インフォメーションセンター」で係員さんにダメもとで訊いてみたら、「ダイヤの表」みたいなものを調べていて、「この時刻にこの駅に到着しますよ」と教えて下さったことが以前ありました。

また、お邪魔したいと思います。

失礼します。
by 京阪快急3000 (2012-07-10 19:00) 

KEY坊

オリンピックの顔と顔、ホレ、どどんと、どどんと~♫
その後の昭和39年頃は、高度成長期に入って輸送力がひっ迫してきたのを受けて、
101系が7連にTc+M+Mc (だっけ?) の3連を加えた10両編成、旧国というと、
6連から7両編成にして輸送力を凌いでた様な覚えが... 。
これら7連というのも、中野電車区の留置線が7両分の長さしかなかったからでしたっけ ?
全然、答えになってませんねぇ ... (汗;)


by KEY坊 (2012-07-10 22:30) 

maipenrai

おはようございます。
京阪快急3000さん
 はじめまして。いつもお名前は拝見しております…。
 昭和40年頃までは、総武線は「半流電車の聖地」といわれていたようですが、同じ頃関西には「同じ顔なのにセミクロスシート」のクモハ51やクハ68が「普通電車」で走っていて、羨ましく感じていました。
 ダイヤや運用を調べるのは、子供の頃から好きで、ここだけの話ですがダイヤ改正の都度、不要になった古いダイヤ表を、国鉄本社や東鉄の運転科に「潜り込んで」係員の方におねだり…なんてこともしてました。機関車の運用表は、ガリ版刷りのものを機関区でいただくこともできました。我ながら図々しい話ですが、いい時代でしたねぇ。
 今後ともよろしくお願いします。

KEY坊さん
 総武線の101系は最初は8連で投入されたんですが、すぐに7+3の10連に組み替えられました。同じ頃、常磐線の旧国が10連になったというのを聞いて、そんなに繋げられるんだ…と感心した覚えがあります。例の「5方面作戦」で、常磐線、総武線が複々線になるのが40年代後半、今思うと、かなりのペースで輸送力を増やしながら、乗客の増加はそれを上回る凄まじい勢いで増えていた…まさに高度成長期だったんですね。

あおたけさん
フジトモさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-07-11 07:12) 

伊 謄

こんにちは。
貫通扉のないクモハ73の前に、クモハ40が1両だけつくことはないですから、クモハ40はクモニのピンチヒッターではないでしょうか?
by 伊 謄 (2012-07-11 13:18) 

上野のおぢさん

毎度お世話になります。旧国電で思い出されることは、床が木であった車両と化成品(材質はわかりませんが101系などと同じ材質)であった車両がありました。木の車両でワックスを塗りたての場合、ノートや下敷きを落とすと油が付着して汚れてしまうことがあったように記憶しています。社内の独特の香りも懐かしいです。西武鉄道の国分寺-萩山間にはかなり最近(30年前くらい)まで旧国鉄払い下げのような車両3連結したものが走っていたように思われます。懐かしいです。
by 上野のおぢさん (2012-07-12 08:19) 

Cedar

えー、Cedarです。拙ブログのヨタ記事に勿体無いお言葉ありがとうございます。73の前に半流とは憎い編成ですね、いっそのこと、半流の前に73だったら最高でしたね。
下川原線は競馬の日に撮影に行ったことがあります。
101系の5連が住宅地の急カーブをギリギリ曲がって行くのが印象に残っています。
この日の様子は初めの頃、ブログに記事Upしてます。


by Cedar (2012-07-12 17:28) 

みやちゅう

こんばんは
良い画です こんな編成見たかも
今 下河原線の過去画像調べましたら
白地に国分寺・東京競馬場と縦書きされていました クモハ40ですが。
もうひとつ自宅近くで写した 配給編成(試運転)
千葉ー西千葉 クモハ73+クモヤ?+モハ72+クモハ73
全車にパンタ有りでクモヤのみ下げパンタ他は3両パン上げ
の写真出てきました。
総武線半流はピンボケで1枚ありましたよ。

by みやちゅう (2012-07-12 20:05) 

maipenrai

伊 謄さん
 昭和36年の配置表を見ると、津田沼区には両運のクモハ40(40076)が一両だけ配置されていますね。片運のクモハ41はうじゃうじゃと37両!も。房総電化前は総武線の荷物はDCが面倒みてましたから、この1両だけの両運車の存在意味は、謎なのであります。

上野のおぢさんさん
 木造の床、懐かしいですね。あの独特の匂いはワックスの匂いなのか、消毒薬(貫通路のところに「消毒済票」というのが掲示されていました)の匂いなのか、今となってはさっぱりわからないのですが…。

Cedarさん
 しょっぱいトリビュート企画、失礼いたしました
>半流の前に73だったら最高。
 確かにゼータクな「前へならえ」です。下河原線の記事、御ブログは隅々まで読ませていただいているつもりだったんですが、気が付きませんでした。101系が「国分寺」の方向幕を出しつつ、旧国クハ79みたいに前面サボも掲出している姿にしびれました。
 競馬も、入場人員、売上ともに減少傾向とか。昭和の娯楽は廃れゆく運命なのでしょうか。

みやちゅうさん
 お写真、是非拝見したいですね! ブログ、始めちゃいましょう(コラコラ
 冗談はともかく、旧国時代の総武線は、車種のバラエティも豊かでしたし、車両も短いスパンで入れ替わっていました。毎度のことながら、もう少し真剣に撮っていれば…と後悔しきりです。

nexus6さん
 niceありがとうございます。
 
by maipenrai (2012-07-12 22:15) 

伊 謄

 こんにちは。
 両運車は牽引車、つまりクモヤ代用としても使えますし、荷電や配給車の代用にもなります。
 国府津のクモハ40は、晩年は客扱いをしたことがなかったんじゃないかなぁ(笑)。
by 伊 謄 (2012-07-13 08:01) 

こがね丸

はじめまして。総武線から東京競馬場に向かっていた臨時電車の写真は、JTBキャンブックス「中央線 オレンジ色の電車今昔50年」に、吉祥寺駅、国分寺駅で撮影されたものが各1葉ずつ掲載されています。特に後者は73系6連にクモハ40形が連結された編成です。しかし当時の津田沼区の所属ではなく、中野区の編成のようにも見えます。そのへんの判定をよろしくお願いする次第です。
by こがね丸 (2012-09-17 14:12) 

maipenrai

こがね丸さん
 こんにちは。面白そうな本ですね。amazonに注文をだしました。届き次第、またコメントさせて頂きます。
by maipenrai (2012-09-17 15:15) 

maipenrai

こがね丸さん
 ご指摘の本が届きました。競馬場臨時電車は代々木駅の項にも載っていました。代々木駅の写真は運行番号が「41B」なので、キャプションにある通り中野電車区の編成ですが、吉祥寺駅のものは「73C」なので、津田沼電車区の編成ですね(写真が6連にも7連にも見えるのが悩ましい)。国分寺駅のものは、運行番号が読めませんが、代々木駅の編成を反対側から撮影したものでしょうか。撮影日はいずれも昭和38年5月26日とありますので、ダービーの開催日なのでしょう。
 昭和36年の車両配置表を見ると、中野電車区には7両ものクモハ40が配属されています。平常時は競馬場支線の単行運行以外に、総武線の付属編成としても使われていたと思います。
 それにしても行き先札が白地に黒の手書きのような文字、私のボケボケ写真の正体は、どうやら競馬場行き臨時電車で間違いなさそうです。
by maipenrai (2012-09-18 17:08) 

こがね丸

 早速の書籍のご購入、詳細なご説明をありがとうございました。当時は吉祥寺に住んでいて、中央線で通学のあと通勤に毎日使っておりました。競馬場への臨電もよく見かけましたが、通勤型の臨電ということであまり興味もなかったのが悔やまれます。
 中央・総武線のクモハ40形は昭和20年代以降、津田沼区,三鷹区の配置が多く、中野区へは昭和30年代になってから三鷹からの転属で増えていきました。同区の編成は中央・総武共通運用で使用されていましたので、中央線の快速にも40形を増結した編成が昭和37年頃まで走っていました。その後は下河原線用になり、やがて武蔵小金井区に転じました。クモハ41形は何と言っても津田沼区に多く、次いで三鷹区でしたが、昭和29年以降は中央線の混雑が激しくなり、72、79形の新製投入が続いて順次津田沼区や松戸区に転じました。津田沼区のクモハ41形は昭和42年まで見られましたね。
by こがね丸 (2012-09-19 10:56) 

wanko

1970年から81年まで下川原線沿線の電機工場へ通勤していましたが、日中、早朝、夜間はクモハ40071と40074が隔日で交互に使われていました。最終日の73-3-31は40071でこの写真は数多くネットに出回っていますが、鉄博入りした40074のほうはあまり知られていないようです。(府中市のグラフ誌に写真があります)
朝夕のラッシュ時は武蔵小金井区の73型5連で国分寺寄りからクハ79459、モハ72540、サハ78512で競馬場寄りの2両は失念しました。
この編成は71年10月から101系5連に置き換えられていました。
東京競馬開催日は東京から直通があって中央線基本編成の7連で、通勤用の5連と交互に走っていました。(単線のため北府中で交換)

昭和30年代は知りませんのでご容赦ください。
by wanko (2017-03-23 13:59) 

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