千チハ~千葉気動車区の思い出 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 小学生の頃、父は小さな軽印刷屋を営んでいました。和文タイプで原稿を打ち、電動式のガリ版の親玉のような機械で印刷する…といっても、今の方にはなにがなにやら…でしょうが。
 50年前にはそれなりに旺盛な受注があったようで、自宅の一角の作業場とは別に、千葉に「分室」を設け、タイピストが常駐していました。そこで千葉と市川の間を原稿(原紙、と呼んでました)が頻繁に行き来するんですが、まだ宅配便など無い時代です。ハンドキャリーの「クーリエ」に抜擢されたのが私(笑)。小学校5,6年の頃には、学校から帰ると「ちょっと千葉まで」よくお使いに遣らされたものです。
 鉄に目覚めつつあった小学生の私、もちろん電車に乗れるのが嬉しくないわけはなく、行きは国鉄、帰りは京成(このパターンが多かった)の小旅行を楽しんでいたものです。

 鉄ガキにとって、車窓風景のハイライトは車両基地。市川から千葉の間には、津田沼に国電基地の「津田沼電車区」がありましたが、これは総武線の線路からは奥まった位置にあるのでよく見えない。現在の千葉県内を走る電車の一大拠点となっている「幕張車両センター」は、幕張本郷駅ともども影も形もない頃です。その代わり「気動車王国」と呼ばれていた当時の千葉を代表する車両基地が、稲毛と西千葉の間、総武線線路の北側に広がっておりました。その名も「千葉気動車区(千チハ)」。
27キハ28検修庫.jpg


 千葉行きの国電が稲毛駅を出ると、鉄ガキは進行左側の車窓に釘付けです。しばらく走ると洗滌線に並ぶDCが見えてきて、係員が手洗いで車体を洗っています。その先は検修庫、さらに10本余り並んだ留置線に、ズラリと並んだDCが夕方ラッシュの出番を待っていました。その留置線が一本にまとまった出区線が本線と合流すると、電車は西千葉の駅に到着します。

 なんとも凄まじい写真をお目にかけてしまいましたが、総武線の電車の中から撮った千葉気動車区。手前は洗滌線、奥の検修庫の中にキハ28の姿が見えます。カメラはフジペット…ということは、昭和36年秋から38年春頃に撮った写真です。千葉に度々「お使い」に出されていた時期と符合します。

 もうひとつ、これまた凄まじいネガ傷だらけの写真。やはり6×6なのでフジペットで撮った写真ですね。確証はないんですが、当時の私の行動範囲で考えると、千葉気動車区だろうなぁ…。
26キハ36?.jpg


 手前に写っているキハ35(36?)ですが、千葉地区にキハ35系が投入されたのは昭和37年が最初、ということなので…国電を途中下車して撮りに行ったということは、電車から「新車」のキハ35(36?)が見えたので、お使いをほっぽり出して…という事だったかも知れません。

 そういえば一枚目の写真ですが、キハ28系が千葉地区に投入されたのもやはり昭和36年後半から37年にかけて。電車の窓から無理やり撮ったのも、「新車」キハ28が見えたから、と考えれば納得がいく…。

 今思えば、あの頃の私は「新車好きのミーハーガキ鉄」なのでありました。
 国鉄の現業機関として初めて「気動車区」を名乗った千チハ。昭和36年当時だと、気動車区と名がつくのは、千葉のほか奈良、九州の直方と竹下の4箇所だけでした。九州は電気式気動車の発祥の地だし、キハ35系も最初は関西本線の体質改善のため、奈良に集中配置されていました。同じような意味で、新型気動車が千葉に配置されるケースも少なくなく…というわけで、千葉気動車区は千葉のガキ鉄には目が離せない場所だったのかもしれません。そりゃ国電は茶色の旧型ばかりだし、蒸機はくすんだ客車を牽いて走ってたわけで、千葉の国鉄で華やかな話題といえば、気動車しかなかった、ともいえるんですが…。

 そんな「新車好き」が張り切って千葉気動車区を訪れたのは昭和41年。「新系列」の近郊型キハ45が投入された時でした。中学3年~高校生になっていた私は、小学生の頃のようにおずおずと敷地外からカメラを構える…なんてことはなく、現場に行けばまずは事務棟で見学許可をもらって堂々と構内を歩きまわる…なんて可愛げのない知恵もついてしまっております。
 車庫の奥まった場所に留置されていたキハ451。新製配置直後、まだ営業運転には就いていなかったと思います。
01キハ45 1.jpg


 こちら側はキハ454。奥側から1,2,3,4と番号順に綺麗に並んだキハ45。
02キハ45 4.jpg


 キハ455は一両だけ離れたところに留置されていました。
03キハ45 5.jpg


 検修庫脇にはキハ456+キハ457が…。この7両が新製配置(その後の転入もなし)された千葉のキハ45の全陣容。
04キハ45 6.jpg


 キハ45系列は、キハ25系列の後継として製作され、近郊型の名のとおり、二扉ながら両開きドアを採用。運転台は高運転台で、前面窓もパノラミックウインドウを採用していました。まぁ、気動車としては目新しいんですが、当時大増備されつつあった111系や113系電車を、二扉の気動車にした感じで…。

 室内の見つけなども111系/113系そっくりですね。
05キハ45車内.jpg

 この当時ですから、冷房はもちろんなく、扇風機がズラリ並んだ天井や、ロングシート席にも設置されていた灰皿が懐かしい。

 運転台回りもあんまり目新しいものはありません。マスコンやブレーキ弁もキハ25系列などと同じ物が搭載されています。
06キハ45運転台.jpg

 それもそのはずで、キハ45系列は車体こそいままでの気動車にない形ですが、エンジンは従来通りのDMH17Hを搭載。台車もDT22C/TR51Bと走り装置は従来と変わらず、従ってキハ17系列/35系列/25系列といったそれまでの千葉の主力だった気動車との併結はまったく無問題。…というわけで、落成時の同型で整った編成はすぐにバラバラにされ、千葉名物珍ドコDCの一員に、なんの違和感もなく収まったのでありました。

 ところで、キハ457の後ろに、見慣れない気動車が繋がっています。急行型のような塗色ですが、乗降扉は折戸、客室窓は二段上昇のユニットタイプ、そして屋根の上にはなにやらものものしいラジエター?
07キハ45 7+キハ90 1.jpg


 当時の気動車は、特急型(80系)から通勤型(35系)まで、一部の例外を除いてDMH17系列という共通のエンジンを採用していました。機関を共通化するというのは、メインテナンスには都合がいいんでしょうが、いかんせんDMH17系列のエンジンは180PSと非力。
 そこで勾配線区向けには2台を搭載していたのですが、当時の中央本線など、グリーン車まで2機関搭載のキロ58なんてものまで作って強力編成を投入しても、連続25‰の均衡速度が45Km/h程度というありさま。
 そこでより強力なエンジンを開発した文字通りの「新系列」気動車を試作したのが、写真のキハ90+キハ91であります。
08キハ90 1+キハ91 1.jpg


 こちらはキハ911。キハ90と91の大きな違いは、搭載する機関がキハ90=300PS、キハ91=500PSと出力が違うこと。性能比較のためだったのでしょうが、最終的にはキハ91搭載の500PS機関に軍配が上がり、量産試作車が登場。中央西線に投入されて急行「しなの」として定期運用を持ち、其の試験結果を元にキハ65形気動車や、キハ181系気動車が登場し…なんて経緯はボロがでないうちに止めておきますが、勾配線区での本格的な試験の前に、千葉地区で足慣らし的な試験を行うために、当区に配属されていた模様です。
09キハ91 1.jpg


 強力型気動車といえば、忘れてはならないのがこちら。
 キハ60形であります(キハ60 2+60 1)。
10キハ60 2+キハ60 1.jpg


 見た目はキハ55/26のボディですが、見分ける最大のポイントは外吊り式の乗降扉。キハ90+91系に先立ち、昭和35年に造られた気動車で、国鉄気動車で初めて空気ばね台車を履き、ディーゼル機関車DD13で実用化されていた370PSの機関を搭載した、意欲的な車両だったらしいのですが、どうにも不具合が多かったらしく…。結局一般型の気動車と同じDMH17系機関と変速機に換装してしまったのですが、そうとは知らぬ当時の私はエンジンも変速機も違うキハ60系が、キハ28や17あたりに混じって編成の中ほどに連なっているのが不思議でなりませんでした。
 キハ60系列はこの2両の他、一等車(グリーン車)のキロ60というのもおりまして、3両とも千葉気動車区に配置されていました。

 一等車といえば、かつては千葉局管内にはスロハ31なんて客車が配置され、普通列車に組み込まれていたそうですが、気動車化の進展とともにいなくなり、千葉の列車はすべて普通車モノクラス、なんて時代が長かったようです。優等列車の準急もモノクラスの時代が続きまして、初めて一等車が組み込まれたのが昭和38年10月改正で誕生した、全車指定席準急「さざなみ・くろしお」からのこと。
 このキロ2867を撮影したのも、おそらくその頃でしょうね。
11キロ28 67.jpg


 漢字二文字の「内房」のヘッドマークをつけたキハ26217。種別は「急行」になっているので、昭和41年の3月以降の撮影だとわかります。
12キハ26 217.jpg


 同じ意匠のヘッドマークですが、こちらは「準急 成田」。「成田」なんて準急、ご存じないかも知れませんが、ご覧のとおりちゃんとありました。但し、初詣時期を中心に走っていた臨時準急ですけど。
13キハ26準急成田.jpg


 ここからは一般車。なんといっても代表格はキハ17(キハ17 129)。ずらり並んだバス窓、ステップの部分がガラス貼りのドア、中に入れば背づりの低いボックスシートが並び、車室中央にはぶっとい排気筒、薄暗い白熱灯照明に乗り心地の悪い台車…あれ、悪口を並べちゃいましたが、決してキライな車両ではありませんでした。
14キハ17 129.jpg


 こちらはキハ17のトイレ無しタイプ、キハ16(キハ16 76)。
15キハ16 76.jpg


 キハ17から運転台を取っ払った中間車タイプのキハ18(キハ18 1)。
16キハ18 1.jpg


 この車両はキハ18のトップナンバーですが、トップナンバーの配属が多かったのも千葉気動車区の特色で、昭和36年の配置表を見ると18 1の他に、キハ25 1が在籍。43年になると、18 1が依然在籍する他、キハ60 1、キハ55 1、キハ45 1、キハ28 1、キハ16 1、キユニ11 1、キユニ19 1が在籍…とちょっと凄いことになってます。キロ601は43年には格下げとなりキハ60101に改番されていますが、キハ35901もいたし…というのが、千葉っ子のちょっとした自慢なのでした。

 我孫子行きの方向幕を出したキハ35(キハ35 61)。
17キハ35 61.jpg


 キハ35といえば忘れちゃならないステンレス900番台(キハ35 902)。
18キハ35 902.jpg


 キハ10/11も配置はあったのですが、両運転台車は千葉では少数派でありました(キハ30 14)。
 でもその両運転台故に、久留里線にキハ30がいまも残っているというのも運命の皮肉ですね。ご承知のように余命はいくばくもないんでありますが…。
19キハ30 14.jpg


 気動車区といっても、ディーゼルカーばかりでなくディーゼル機関車も配置されていました。最盛期には13両配置、とちょっとしたものですが、機種はDD13オンリー。仕業のほとんどは入換で、ふだんは新小岩や蘇我、木更津などに常駐して、あんまり本区ではみかけることがなかったように思います。
20DD13 162.jpg

 このDD13162は昭和38/39年夏、重連を組んで電車準急を牽引した「栄光の機関車!?」です。
 関連記事はこちらをどうぞ。
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-07-27

 なぜか気動車区の構内に佐倉機関区のC588がたたずんでいます。
21C58 8.jpg

 実は気動車区の西側には転車台が備え付けられていました。銚子や房総方面から千葉まで客車を牽いてきたSLは、主に蘇我に(逆単)回送され、転向していましたが、一部の機関車は西千葉まで走り、気動車区の転車台を使って転向していたのです。

 気動車区のすぐ脇は総武本線。車庫の撮影をする傍ら、本線を走る列車にもちょっかいが出しやすい。佐倉もしくは蘇我から新小岩に向かうD51770牽引の貨物列車。
22D51 770貨.jpg


 キユニ11の2連は昼下がりに両国を発つ新聞輸送列車でしょうか。
23キユニ11×2.jpg

 この場所は、もう気動車区の西のはずれ。遠くに稲毛駅の跨線橋が見えています。右端に小さく写っているのは専売公社の引き込み線で、貨車が何両も並んでいます。私が立っているバラストの真新しい線路に右側から合流するのが、気動車区の出入庫線で、気動車区には西千葉側からも、稲毛側からも出入り出来る線形になっていました。

 その「バラストの真新しい線路」なんですが、架線が張られていますね。
 あるとき、ここにこんな車両が止まっていました。
24EF58 154.jpg

 EF58154。所属名板は「東」。東京機関区所属のゴハチです。なんでキミがこんなところにいるの? と思わず聞いてみたくなるシチュエーション。
 初詣の時期、今でもたくさんの「成田臨」が運転されているようですが、当時もそれは同じ。メインルートは我孫子、木下回りですが、中には新宿方面から中央快速線~御茶ノ水~総武線~千葉~成田というルートを走る列車もありました。それをゴハチが牽いていたわけなんですが、もちろん当時は千葉から先は非電化区間。そこで、稲毛の中線を使って機関車交換をおこない、稲毛から先は蒸気機関車に付け替えて成田まで走っていたようなのです。
 もし今の時代、EF65PFが12系客車を牽いてこのルートを走れば、沿線パニックは必定でしょうねぇ。

 稲毛駅の下りホームから西千葉方向を見ています。気動車区はキユニ11の進行方向左側。上り本線、中線と並んで、下り本線との間に機留線があります。ここに蒸機を待機させ、中線に入った成田臨はEF58を気動車区方面に逃して、蒸機に付け替え、成田への道を歩んだのでしょう。
25キユニ11稲毛駅.jpg


 今は複々線になった総武線、このあたりも高架となり走り抜ける電車から見えるのは公園になった気動車区跡地。ここに大勢の気動車が、ガラガラと盛大にアイドリング音を響かせながら屯していたことなど、想像もできないほど変わってしまいました。

 最後はなんだか気動車とは関係なくなってしまいましたが、千チハが一番華やかだった時代の思い出話、これにて失礼致します。
nice!(14)  コメント(19)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 14

コメント 19

あるまーき

貴重なお写真の数々を拝見させていただきました。ありがとうございます。気動車王国だった頃を自分も見てみたかったです。
by あるまーき (2012-06-29 18:58) 

Cedar

さっすが地の利を活かした、圧倒的ボリュームの記事!堪能させて戴きました。
四国か千葉か?と言われた気動車王国。私は夏に海に行く時にお世話になりましたが、この時は千チハ以外に、仙ココだの四カマだのと、見慣れない表記のが入り乱れて走ってましたね。
こういう所もほぼ全部連結可能な気動車ならでは。
by Cedar (2012-06-30 07:22) 

maipenrai

あるまーきさん
 富山のゴハチニハチを最後まで追っかけられたあるまーきさんには、できるもんならあの時代にお連れしたいです(笑)。このあと、千葉も電化が進むんですが、気動車の置き換えに入ってきたのが茶色い4扉の73系国電…。これなら珍ドコだろうがなんだろうが、経年の新しいDCのほうがよっぽどいいや、と思ったものです。

Cedarさん
 夏が近づくと、どうしても房総の海に遊びに行っていた頃を思い出しちゃいますね。あんなに人が押し寄せて、車両もダイヤもカオスだった時代。時刻表から「房総の夏ダイヤ」のページが消えて、どのくらいになるでしょうか。

xml_xslさん
モボさん
シュウチャンさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-06-30 09:55) 

nexus6

懐かしいですね~  小生は一度だけS48年頃に訪問しました。
ガキどもがアポ無しの突撃訪問をしてしまったのですが、ちゃんと案内係のオヂさんがアテンドしてくれたんですよ。 同じノリで別の日には津田沼電車区を見学したのですが、そこでも行き成り訪問にも関わらず丁寧に案内して頂いたのでありました。
イイ時代でした....
by nexus6 (2012-06-30 20:27) 

maipenrai

nexus6さん
 こればっかりは、今のファンの方には申し訳ないけど、国鉄時代のよさでありましたね。ヒコーキは9.11以來、飛行中のコクピット見学なんて「ありえねー」ものになっちまいましたが、鉄道のセキュリティ強化=ファン締め出しはもっと早かったような…。やっぱ某党派が某電鉄の特急車を「焼き討ち」したあたりが転機になっているんでしょうか。

hanamuraさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-06-30 21:36) 

yomachi_1971

房総の夏輸送~その2~ 以来の書き込みとなります。
幼少期最寄り駅が西千葉だったため、都内や親戚を訪ねる時に、
西千葉を発車してまず目にするのがこの気動車区でした。
私は40代前半のため、車両がまばらの寂しい状況しか記憶にありませんが、
専売公社の引き込み線を含め、本当に懐かしいです。
総武快速線が出来る前は稲毛始発・終着の列車もあったことを思うと、
今は何の変哲もない光景になってしまったかな、という印象です。

ところで、既にご存じの方もいらっしゃるとは思いますが、
以下URLの5分50秒過ぎに、1960年の千葉気動車区俯瞰が確認できます。

Diesel Express 1960 1/2
http://www.youtube.com/watch?v=GVZUjePOUn8

貴重な写真をありがとうございました。
by yomachi_1971 (2012-07-01 09:47) 

あおたけ

まさか試作気動車のキハ90+キハ91が出てくるとは、
本当にmaipenrai さんのアーカイブには驚かされます!
気動車王国時代の千葉、これがわずか50年前の情景なのですね。
近年、新車への置き換えが頻繁に行われるようになったといっても、
今後50年でここまでの変化は無いように感じます。
by あおたけ (2012-07-01 10:58) 

プント

うーむ、毎日通勤でこの辺りを見ているはずなのですが。。
やはり滞在歴半年のニワカ千葉県民には全くイメージが
沸かないですねえ。
今日は時間があるので今からこの辺りを散策してきます~w
by プント (2012-07-01 14:02) 

京葉帝都

千葉県内はスイッチバックや分割•併合があったりして、気動車は扱いやすかったのかと思います。キハ17系列は国鉄時代は特に西日本で良く乗車しました。満員だと着席でも狭苦しかったです。キハ45は車内が明るいクロスシート車で好みでした。キハ40系の投入などで案外稼働期間は短かかったのですね。
by 京葉帝都 (2012-07-01 14:23) 

maipenrai

yomachi_1971さん
 こんにちは。コメントありがとうございます。数日前でしたか、日本たばこ産業(JT)が、JR稲毛駅近くの同社千葉原料工場跡地6万平方メートル余りを入札によって売却する…というニュースが出ていましたね。千葉市が公園用地として入手を希望していたものの、価格的に折り合わなかったとも書かれていました。
 リンクの映像は岩波映画の「ディーゼル特急(64年)」ですね。その昔、万世橋の交通博物館3階のホールで見た記憶がおぼろげにあるんですが、改めて見るとまさに垂涎モノの映像です。3:35過ぎの九十九里鉄道、その直後の木原線を走るキハ0423やキハ07の「重連」、ご指摘の千葉気動車区のシーンや、6:18頃のスイッチバック大網駅のDCの離合…本筋のキハ81系はつかりをさておき、千葉の昔風景に思わずうるうるしてしまいました。

あおたけさん
 キハ90+キハ91は国電からよく見える位置に留置されていて、発見してすぐに撮影に行ったように記憶してます。ピカピカの新車が既に過去帳入りして久しいわけで、おっしゃるとおり変化の凄まじい速さを感じますね。

プントさん
 地方に行けば、昔の車両基地や貨物扱い施設の余剰地がそのまま空き地で残っているところも多いですが、さすがに東京に近いとあっというまに再開発され、過去の面影はあっという間に失われてしまいますね。確か現在は公園になっていて、車輪一対がモニュメントで置かれているはずです。

京葉帝都さん
 キハ45のグループは、昭和41~43年の3年間で全体で179両しか製造されなかったというのは、やはり過渡的な存在だったのでしょうね。昭和52年から、次世代のキハ40系列が老朽化したキハ17系列の置き換えで大量増備されますが、キハ45系列も一緒に隅っこに追いやられてしまったような感じでした。
  
by maipenrai (2012-07-01 18:04) 

KEY坊

こんにちは。 はじめまして~♫
そうそう、キハ45は、夏のダイヤで「内房 (うちうみ) 」や
「外房 (そとうみ) 」キハ26主体の臨時急行の50番台号に連結
されてましたね ... 確かに、エ~っ !? て思う凄まじい混成編成で
ございました。今のご時世のシステムというキーワードには
程遠い時代で、何だこのオンボロと思う反面、面白味は今の鉄より
十分ありましたよねぇ … 。


by KEY坊 (2012-07-02 11:50) 

maipenrai

KEY坊さん
 はじめまして!
 キハ17系を優等列車に使う千葉鉄ですから、新車のキハ45/23なんてまったく無問題、急行に組み込まれ堂々たるものでした。
 現在は…夏季輸送の時期にかぎらず、クルマに押され、バスに押されの千葉の鉄道、面白さ以前に、これで大丈夫なのかと心配になります。

フジトモさん
むーさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-07-02 23:57) 

みやちゅう

御無沙汰しています。
西千葉気動車区 鉄の原点の場所です
西千葉で生まれ毎日 レールのつなぎ目音で育った場所
気動車区は毎日飽きなく眺めていました。キハ17系・28系・30系
35・45最後はキハ58系も居ました。
キハ90-91系は新車が来た時から知っています。
生意気にも区の職員に何馬力車なんて聞いて いっぱしのマニヤ振り
を出していました。
懐かしいサボ 区の中央部に沢山置いてありました
キハ45の写真の隣の救援車 涙が出るほど懐かしいです
いい写真ありがとうございます。
by みやちゅう (2012-07-03 20:27) 

maipenrai

みやちゅうさん
 お久しぶりでございます。
 市川のガキが、遠征してなにやら勝手なことをほざいてしまい、失礼しました。救援車は気になっていました。なんとなくスユニ31改造のスエ30かな? なんて思っています。今だったら絶対キハ45よりそっちのほうに目が行っていたでしょうね。
by maipenrai (2012-07-03 21:00) 

サルサマニア

初めてコメントさせていただきます。

千葉気動車区の全盛期の貴重な画像をありがとうございました。

特にキハ90系のトップバッターの画像は涙モノでした。

自分も自宅が総武線の線路脇にあるので休みの日は朝から夕方まで通る列車をながめていました。

昭和41年当時は自分は小学校2年生でしたが見慣れない気動車が千葉~西千葉間の電留線にとまっているのをみつけました。

折り戸のステンレス製の扉が西日にまぶしく光り輝いていて、エンジン音が異常にうるさい気動車だなあと子供心に思った記憶があります。

西千葉駅の上下線の間にもたしか1線あって回送列車等が留まっていたきおくがあります。西千葉駅の千葉大学側の改札は入ってからホームまでがかなりの距離があってまるで駅中に公園があるようなイメージでした。

これからもよろしくおねがいいたします。
by サルサマニア (2012-08-05 01:49) 

maipenrai

サルサマニアさん
 はじめまして。
 お家が線路の近くにあるとはうらやましい。昭和40年代、大きく変わっていった総武線をまのあたりにご覧になっていたんですね。
 気動車区に行くには、千葉大側の改札を使うので、広々とした構内をうっすらと覚えています。
 一年前の記事ですが、
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-07-16
 に一枚だけ、西千葉駅の中線が写っている写真があります。
 今後ともよろしくおねがいいたします。
by maipenrai (2012-08-05 18:35) 

千葉鉄保田駅改札係

初めまして。
千葉気動車区で検索してやってきました。
自分は昭36生まれなのですが、時たまお出かけした時の千気や新小岩の写真から懐かしの風景に、あっという間に数時間(笑)見入っていました。
保田駅はよく通っていて、夕方の上り貨物の入換や、夏休みともなると海寄り虫取りより夏ダイヤでした!幼心にキハ17系急行にえっ?と思い、翌年快速さざなみになって納得とか、キハ26よりこっちの方が急行向き?と思ったキハ45とか懐かしく思い出します。
更に千倉電化から房総1周電化まで、黄金期の房総夏ダイヤを見ていたのはよいのですが、写真が殆どなく見るばかり。今みたいにデジカメで手軽に写せていたらとは、ないものねだりでしょうか。
また拝見に参ります。素晴らしいブログ感謝ですm(__)m
by 千葉鉄保田駅改札係 (2015-01-11 22:19) 

猫めん

千葉気動車区で検索してやってまいりました。猫めんと申します。よろしくお願いいたします。
懐かしい~ 実は子供のころ写真にもあります専売公社の見えるあたりに住んでおりました。毎日のように車両を眺めにいったものです。特急型以外はなんでもあるといった状況で今みたらどうなっちゃうんでしょう。キハ45は近代的なスタイルでめだちまっくていました。まさかキハ90系統までいたとは驚きです。特急電車が走りはじめたころは目にみえて車両も少なくなり私もまもなく引越してしまいました。いまだに軽い鉄ちゃんです。
by 猫めん (2015-10-30 14:41) 

しまふくろう

 しまふくろうといいます。懐かしい写真をありがとうございます。気動車区の前に実家があり小学校は弥生小だったのでいろいろな風景が思い出されます。気動車区は遊び場も同然、車両はもちろん職員の方とも仲良くなって前庭で一緒にマレットゴルフやったりして楽しかったです。転車台も飽きずに眺めてました。
 またのぞきに参ります。ありがとうございました。
by しまふくろう (2015-11-09 07:56) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。