夢の跡~九十九里鉄道廃車群昭和39年 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

手元に「昭和39年6月18日」と撮影日付の入ったネガがあります。元来、整理能力のない私、日付まできちんと書かれていることはめったにない。
 こういうのが見つかると「ヨシヨシ、それでは6月18日の更新にぶつけて…」なんて目論むわけですが…今日は…しまった、もう6月19日だ!」
 いつもこんなんばっかであります。ほとほと、自分のアバウトさに愛想が尽きる、というものですが、来年まで寝かせたところで、同じ事を繰り返す可能性大…。
 というわけで、ちょっとおマヌケですが、久々の「昔鉄」は、中学2年生の時の「地元千葉県日帰り鉄旅」の記録を御覧ください。

 朝早く、千葉駅を発った房総東線の下りDC。途中駅の風景です。
 交換する上り列車の先頭に立つのは、配属間もないステンレスのキハ35900番台。この車両に向けてシャッターを切ったはずですが、いくらなんでもタイミングが早すぎ…でも怪我の功名? で、当時の駅前の風景なんかも写り込んでいます。
01誉田.jpg


 さて、この駅はどこ?そこで、写真をアップにしてみると…右側の電柱の駅名表示が、ひらがな3文字なので、「誉田」ですね。かまとり、ほんだ、とけとこの区間の駅名は文字数が違うので、判別に助かります。
01-02誉田up.jpg


 このあたり、複線化、電化、市街地化の進展で、現在はまったく様相が変わっています。木造の駅舎、上り列車から降りて改札に向かうOLさん? 構内踏切で、列車の通過を待つ女子高生。ローカル色いっぱいながら、朝の活気を感じます。

 大網駅に到着。ここでも待っていた上り列車の先頭はキハ35900番台。スイッチバック時代の大網駅、列車はここで方向を変え、茂原方面に向かいますが、線路自体はまっすぐ先に繋がっていて、大網と成東を結ぶ東金線に名前を変えます。
03大網.jpg


 東金線のDCに乗り換え。2両編成の成東寄りは、やはりキハ35903でした。おそらくこの時が初乗車だったはず…でも乗ってしまえば、千葉から乗車してきた通常のキハ35と変わるところはありませんでしたね(当たり前か)。
04キハ35903.jpg


 僅か2駅の乗車で、到着したのは東金駅。
05東金駅2011年.JPG


 この写真は昨年撮影したものですが、奥のショッピングセンターと、手前の駅ホーム、その間の駐車場になっている辺り、その昭和39年の光景がこちらです。
06キハ103+104+.jpg


 ずらりとならんだ廃車体。窓ガラスは破れ、車体には雑草が絡み付いています。
 昭和36年2月いっぱいで廃止になった「九十九里鉄道」で使われていた車両群です。

 九十九里鉄道は、東金から九十九里海岸に面した片貝まで、8キロ余りを結んでいた、軌間2フィート6インチの軽便鉄道です。廃止の頃は、私は小学4年生でしたが、当時資本関係があったのかな、京成電車の車内に掲出されていた「沿線案内地図」には、京成千葉線から海士有木までの予定線が描かれていた小湊鐵道の右上の方、離れ小島のように「九十九里鉄道」の路線も描かれていて、その存在だけは知っていたのでした。

 中学に入り、多少は情報も入るようになっていたんでしょう。東金駅の構内に、とっくに廃止になっていた九十九里鉄道の車両が置かれている…という話を聞きつけ、まだ見たことのない「軽便鉄道」の車両をこの目で見ようとやってきたのでした。

 九十九里鉄道といえば「単端式気動車」。写真のキハ103の他、廃止時点では102~104の3両が在籍していたそうです、上の写真で4両連なった廃車体の前3両がキハ103、104、102、ということになるのかな。

 ボンネットバスのような形状、と形容される単端式気動車ですが、この103の場合、もっと無骨に、単車のボディーに、フォードT形トラックのボンネットをそのまま接着したような感じ。のちにエンジンは換装されたようですが、製造当初はT形フォードのエンジンをそのまま搭載していたそうです。
06-02キハ103up.jpg


訂正です。
 記事をアップロードした直後に、注文していたRM LIBRARY#37「九十九里鉄道 潮騒の浜へゆくキドー」が届きました。100形のエンジンが「T形フォード」とあるのは間違いで、「フォードソン・トラクタ25馬力のエンジン」が正しいようです。著者の白土貞夫氏によれば、「T形フォード」説がひとり歩きしていて、氏も以前間違った記事を発表されてしまった、とのこと。丸みを帯びたボンネット=エンジンカウルの形は、確かに見覚えあるT形フォードそっくりですものね。私もどこかで読んだうろ覚えの記憶、謹んで訂正いたします。

 キハ104。単端式、というくらいですから、エンジン、及び運転台は片側にしかついていません。常にエンジンがある側が先頭に立ち、客車や貨車を2~3両ひっぱり、終着駅に着くと小さな転車台で方向転換をしていました。
07キハ104.jpg


 そんなのどかな軽便鉄道の貴重な現役時代の記録は、
◯はーさん様のHP「はーさんの鉄道・旅・よしなし草」
http://6.fan-site.net/~haasan55/kujyukuri.htm

◯katsu様のブログ「地方私鉄1960年代の回想」
http://umemado.blogspot.jp/2010/12/blog-post_7232.html

 で拝見出来ます。ため息が出るほど素晴らしい写真の数々。もう少し早く生まれればよかった…。

 3両のキハ100のいちばん後ろに並んでいたケハフ301。「マッチ箱のような客車」とは、こんなクルマなんだろうなぁ。
08_ケハフ301.jpg


 国鉄のホームから見て奥側には、もう一列、車両が留置されておりました。
09_2列目.jpg


 ケハ111。オープンデッキを持ったボギー客車。この客車が最後尾についたらちょっとした展望車気分が味わえたでしょうね。
10_111.jpg


 キハ201。形式でわかるとおり、元々は単端式気動車でしたが、途中でエンジンを取り下ろして、客車として使っていたそうです。

 
11_201.jpg


 さて、路線廃止から3年あまり経ったこの時点で、まだ数多くの車両が東金駅の構内に残されていた事情については、「鉄道ピクトリアル臨時増刊号2007年3月 No787 特集京成電鉄」に、千葉の鉄道趣味界の大御所・白土貞夫氏が「谷津遊園をめぐる鉄道」という記事を寄せられ、その中に詳しい事情が描かれています。
 要約引用しますと、当時京成沿線にあった2大レジャーランド「船橋ヘルスセンター」と「谷津遊園」を結ぶ遊覧鉄道計画が立ち上がり、昭和36年1月に地方鉄道の免許申請、同年10月に免許がおりました。
 その計画では、全長1.65Km、軌間762ミリで、車両は当時廃線となった九十九里鉄道から6両を調達して使用する、というものでした。
yatsuyuen.jpg


 「船橋ヘルスセンター」と「谷津遊園」は、片や温泉、片や潮干狩りや菊人形…と趣が違い、私も子供の頃から何度も遊びに連れて行ってもらったものです。直線距離では1キロ半ほどの至近距離にあるものの、間には船橋競馬場や葦の生い茂った湿地が立ちふさがり、相互を回遊しながら遊ぶ…という感じではなかったように思います。
 そこで遊覧鉄道を敷き、双方の回遊性を増して…というのは、いまの浦安の「ランド」と「シー」をネズミ型モノレールで結ぶ…という発想のプロトタイプのようにも思えます。個人的には、船橋競馬場の向こう正面、疾走する馬群の向こうを、トコトコと走る単端式気動車を見てみたかったなぁ…。

 けっきょくのところ、60年代後半から、周辺の海は埋め立てが進み、京成自体、浦安のディズニーランド計画を推進していく中で、事業全体の中に占める谷津遊園の地位が低下。ヘルスセンターも温泉がメインの運営だったものが、、レジャースタイルの変容によって集客を減らしていくようになり、結局ヘルスセンターは昭和52年、谷津遊園も昭和57年に閉園され、いまはそれぞれショッピングモールの「ららぽーと」、旧公団の分譲賃貸マンションに生まれ変わっています。

 そのような、社会情勢の変化の中で、遊覧鉄道の免許は何度か延長されたものの、昭和43年に失効してしまいました。
 つまり、私が東金を訪れた昭和39年には、九十九里鉄道の車両たちは、既にボロボロの姿になりながら、船橋、谷津の遊覧鉄道での再起を夢見ていた頃、ということになるのでしょうか。
14廃車体車内.jpg


 東金駅構内に留置…放置されていた車両群は、一部は昭和50年ころまで残っていたようですが、最後は「穴を掘って埋められた」という記述も見かけました。

 一両だけ離れた場所に留置されていた客車ハニフ105。この右側に小さな転車台があったようです。
12_105.jpg


 チェーンブロックを吊り下げ、整備に使われていたらしい櫓。誰が名付けたか、「首縊りの木」という異名があったそうな。

*************************

 さて、東金をあとに再びディーゼルカーに乗って、今度は銚子を目指します。東金駅、もしくは隣の求名駅ですれ違った貨物列車。C58165(佐)の牽引ということは、房総東線へ直通する列車でしょうね。
13_C58165貨.jpg


 余談ですが、万年カレンダーで調べてみたら、6月18日は昭和39年(38年も)は週の半ばの平日でした。そんな日に中学生が一日乗り鉄? ネガフォルダに書いた時日付を間違えたのかな? まったく昔も今も変わらないアバウトさ加減の親父なのでした。

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Cedar

船橋ヘルスセンター、谷津遊園一帯は、京成アミューズランドとして売り出していました。
『長生きしたけりゃチョイトおいで、チョチョンのパ』のCM
に釣られて、『グングン京成』に乗って出掛けたものでした。
by Cedar (2012-06-19 17:30) 

maipenrai

Cedarさん
 「チョチョンのパ」も「グングン京成」も「ミュンヘンサッポロ」も(笑)、ほんとに影響されまくりでした。なにしろ市川駅前から「船橋ヘルスセンター」行きバスが10分おきに出ていた時代。地元ガキとしては、テレビでやってるあの船橋ヘルスセンターに地元駅前からバスが出ている、(親に)連れてって! となるわけですね。でも今思えば、60年代後半のあの場所に、ナローの新線を敷く、というのも、ずいぶん時代遅れのプランだったような気がします。

tochiさん
xml_xslさん
モボさん
フジトモさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-06-19 21:12) 

maipenrai

おはようございます。
nexus6さん
プントさん
あるまーきさん
ディブ松本さん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-06-20 08:17) 

平和堂

日々、更新を楽しみにしております。

「昔鉄シリーズ」には、毎度やられております。
専門誌ではフォローしきれない細部の描写や、
かつて日々の日常と風俗が垣間見れ、とても参考になっております!

PS

以前、市川駅の記事の書き込みにありました、北越製紙の入換機はどのようなものだったのでしょうか?市立図書館でも調べてみたのですが、下総中山のニッケ専用線と共に、なかなか詳細が分かりませんでした。

ただ、入手した「市川町四、五丁目」の地図を見ると、南口近辺だけで、北越製紙専用線以外にも、宝酒造の構内軌道、東京電気化学工業の構内軌道と、市川駅界隈にも趣味的に「濃かった」のだな。と、昔日に思いを馳せる今日この頃です。



by 平和堂 (2012-06-20 15:36) 

maipenrai

平和堂さん
 人間の記憶はアテにならないもので、私自身が細部を記憶しているつもりでも、どこかでフィクションが入り込んでしまうこともありますよね。そんな曖昧な記憶を無理やり引っ張りだしてみると…。北越製紙の入換機は黄色く塗られたL字形でした。引っ張る貨車は主に有蓋車で、屋根の高さは貨車のほうがだいぶ高かったと思いますから、いわゆるスイッチャーの少し大きめのサイズといったところでしょうか。エンジンの音はやかましかったですが、かなりのんびりとした速度で…子供の足でも追いかけられたくらいですから、時速10キロ程度で走っていたかと思います。
 引き込み線に面した親戚の家がありまして、並行する道路から、線路敷を越えたところが玄関、というのも楽しかったですね。
 TDKの構内軌道というのは、初めて知りました。いまのアイ・リンクタウンの場所に、小規模な事業所がありましたが、南八幡(大和田)にも工場がありますね。

by maipenrai (2012-06-20 19:33) 

maipenrai

SORIさん
Lobyさん
あおたけさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-06-21 21:40) 

maipenrai

ひでほさん
シュウチャンさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-06-22 09:44) 

maipenrai

む〜さん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-06-23 13:01) 

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