青森駅は雪の中~昭和42年1月 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 豪雪に見舞われた昭和42年1月の青森、いちめん雪に覆われた操車場から機関区と歩きまわった私は、青森の駅に向かいました。
 東北本線と奥羽本線が東西から合流し、北に向かって海に突き当たった所が青森駅。駅の本屋は東側にあって、西口との間に広い構内をまたぐ跨線橋がかかっていました。その跨線橋からみおろすと、青函連絡船が発着する桟橋…第1岸から3岸まであるうちの、東側の1~2岸に接岸した連絡船に、貨車を積み下ろしする風景がよく見えました。
01_9625青森桟橋.jpg

 入換作業中の機関車は9600形9625。
02_9625up.jpg

 拡大してみると、機関車の後ろに連なる無蓋の控車、煙に隠れてしまったけれど、その先に青函連絡船が停留しているはず。貨車の姿が見えないのは、船への積み込み作業を終えて引き上げてきたところなんでしょうか?
 同じ跨線橋の上から目を左に移すと、手前1番線に寝台車を連ねた東北線の急行列車が到着したようです。奥のほうに見える連絡船の搭乗桟橋の下あたりで、蒸機の白い煙が上がっています。
03_おいらせ.jpg


 列車の最後尾にはC60の補機がぶらさがっていました。
04おいらせ補機.jpg


 凍りついた雪で滑りやすいホームを列車の先頭まで歩いて行くと、仙台から青森に転属したC6129が身体を休めていました。
 ヨン・サン・トオの東北線盛岡-青森の電化&完全複線化まで2年を切っていたこのとき、電化を待たずにDD51が盛岡機関区へ大量に増備されていて、非電化で残るこの区間の優等列車運用を、ほとんど蒸機から奪っていましたが、まだ一部にはC61本務、C60後補機の急行が残っていたんですね。
05C6129おいらせ.jpg


 この列車は12時半頃青森に着く、不定期の「おいらせ」。不定期急行らしく、というか、編成の中ほどには狭窓にダブルルーフもクラシカルなスハ32が組み込まれていました。
06スハ32おいらせ.jpg


 南側跨線橋の下で、一仕事終えた9625が9647号機と一緒に休んでいました。
07_9647+9625.jpg


 9625は当時国鉄に残っていたキューロクの中でも最若番だったはずで、9647ともども1914年(大正3年!)の製造。この時点でも製造されてから60年近く経過している古参機。入換時の見通し確保のため、テンダを切り欠いていますが、当時の私が見ても、十分にレトロな風格を備えています。
 当時最新鋭だったDD51が、今年で製造から50年ですか。今の若いファンから見るとDD51もレトロクラシックに見えるのかなぁ(現在稼働中のものは車歴が若そうですが…)。
08_9625cab.jpg


 前に回ってカメラを向けると、操車掛の方がポーズを取ってくれました。
09_9647+9625.jpg


 こちらは9665号機。青森のキューロクは4桁ナンバーの若番機が多かったですね。
10_9665.jpg


 中線で機回し中のC604。
11C604.jpg


 連番のC605と並びました。
12C604+C605.jpg


 C605が牽くのは、東北線上りローカル、一関行き542レ。
13C605_542レ.jpg


 この列車にもダブルルーフの客車が組み込まれていました。スハフ322048。
14_スハフ322048.jpg


 お昼も大きく回った14時近くになって到着した東北線夜行急行の最終便「第4十和田」。前夜23時30分、上野を発って14時間余りかけて青森に到着します。当時の所要時間はDC「はつかり」が10時間半弱、DC急行「三陸」で12時間半、蒸機牽引区間を含む寝台急行は14時間余り…。東京から700キロを超えるかなたの青森はホントに遠かった。
 えっ? 新幹線「はやぶさ」は3時間半足らずで着いちゃうんですか?

 再び跨線橋の上から。到着した奥羽線の列車でしょうか。客車に入換用の9665がつき、牽引してきたDF50が着回し中。
17_9665+DF50.jpg


 奥羽線ホームで盛大に蒸気暖房の煙を上げているのはDF50456。おそらく「第一津軽」の牽引機でしょう。奥羽線回りで上野を結ぶ夜行列車ですが、青森を発つのはまだ昼下がりの14時を回ったあたりです。
18DF50542第一津軽.jpg


 津軽線のDCが到着したようです。車内はかなりの乗客、そして折り返しの列車に乗る人たちの列も、東北線や奥羽線のローカルよりかなり多い。
19津軽線DC.jpg


 この後、私は青森駅-浅虫間を走っていた国鉄バスに乗って(当時の撮影行の切り札「均一周遊券」は国鉄バスにも乗れたんですね)東北線の2つ手前、浪内駅に向かいました。
 ヨン・サン・トオの電化、複線化と同時に、国鉄は青森地区で大掛かりな路線と設備の改修を行いました。浅虫と野内の間の海岸線を通るルート(たびたび土砂崩壊で不通になっていた)はトンネルで一直線に貫き、野内-浪内-浦町間の青森市街地を抜けるルートは、南側に大きく迂回させる形で線路を付け替え、その途中に青森貨物駅を設けて、青森駅の貨物設備を移管、さらに奥羽線側には青森操車場内にあった客車、DCなどの検修設備を移管する形で青森運転所を設け…といった具合で、この地区の線路状況は大きく変貌します。その大きな事由が、逼迫していた青函連絡船の輸送力を、青森駅構内の航送入換業務を合理化することで、連絡船の滞留、折り返し時間を短縮することにあった、というのですが…。
 時代は高度成長期。旅客だけでなく貨物も、まだまだ国鉄に依存する輸送需要は伸び続けていた時期でした。

 浪打駅。C6017が先頭に立つローカル列車には、客車の前に何両もの荷物車が連なっています。
20C6017浪打駅.jpg


 ヨン・サン・トオで廃止になってしまった浪内駅近くの旧線。国道に平行した市街地の単線の線路を、青森駅を発ったばかりの上り急行がやってきました。
20C6122-01.jpg


 C6122が牽くのは、「北海道観光」号とスジを共用する不定期「おいらせ」かな? 駅の直前というのに、ドラフト高らかに力行する姿は、この旅で一番忘れえないものでした。
21C6122急行.jpg


 夕闇が迫ってきました。弱々しい光の中を、DD51が牽く下りのローカル列車がやってくる。
22DD51普通列車.jpg


 カメラを振ると…あれ? 2日前、龍ヶ森で別れて別行動を取ったはずの鉄友A君がいる。キミはどこを回っていたんだっけ?
23A君.jpg


 冬の日が落ちて宵闇迫れば、あとは青森駅から夜行列車に乗って東京へ帰るだけ…。列車を待つ間、A君と二人で駅前あたりで打ち上げの祝杯をあげたんだろうなぁ。その後のお互いの飲兵衛人生を思うと、絶対ヤッてるな、と思う。あとは夜汽車に乗るだけ…となれば、もとより乏しい財布が、空っぽになっても…ネ。旅の収穫、そしてお互いまだ見ぬ北海道に思いを馳せて…話題は尽きぬはず…。なぁんて自分に不都合なことはとっとと忘れる(未◯年なのに飲◯)特技のため、そのときの記憶はあいまいなのですが…。

 青森駅に戻って来ました。昼間「おいらせ」を牽いてきたC6129の夜のお仕事は、弘前までの奥羽線の最終列車かな。
24C6129.jpg


 私たちを乗せてくれる夜汽車が、上野に着くのは明日の昼過ぎ。♪あぁ、明日の今頃はぁ、ボクは……ほったらかしで全然手付かずの、冬休みの宿題片付けるのに必死こいてるに決まってるじゃん、高校生なんだから…。お粗末。
25last.jpg


 昭和42年、冬休みに東北の蒸気機関車を追っかけたシリーズもこれにて最終回です。新年早々、長々とおつきあいありがとうございました。
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manamana

大雪のモノクロの世界が、新日本紀行のテーマが流れて来そうです。
周遊券と言えば、時刻表の後ろにあった全国の周遊券の案内を見ては、
旅立つことを夢見たものです。
今日たくさん登場した96は、飾らない働きものという感じが、
大好きな機関車です。
by manamana (2012-01-15 07:33) 

Cedar

私も雪のSL写真のネガをチェックし始めました。でもこんなスパルタンな写真はほとんど無いなあ~(笑)。
公開するとしたら、色物企画にしないと皆様に叱られそうです。
by Cedar (2012-01-15 10:07) 

maipenrai

manamanaさん
 言われてみると、昔からNHKはあんまり見ないのに、新日本紀行は好きでよく見ていた気が…。
 96はいつ見ても操車場の片隅か、ローカル線の貨物で黙々と働いていました。国鉄で最期まで働いた蒸気機関車が96だったというのは、当時は意外でしたが、今思うと納得できるような気もします。

Cedarさん
 おおっ、いよいよ…、期待が高まります。
 蒸気機関車は、素晴らしい写真集や出版物がいっぱいあるので、私の場合つい、あんまり人が行っていないような場所の写真を出しちゃう傾向があるみたいです。いわゆる「有名撮影地」にも行ってはいるんですが、同じような場所から撮ると、腕の差、センスの差が露骨に現れてしまうので…。

xml_xslさん
ほりけんさん
 nceありがとうございます。
by maipenrai (2012-01-15 17:30) 

maipenrai

よしくんさん
gardenwalkerさん
素人写真さん
hanamuraさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-01-16 08:50) 

伊 謄

こんにちは。
わたしはWルーフに反応しようと思いますが、東北筋のWルーフ車は1968年度まで使われていたようです。わたしが目撃しているのは福島区のスハフ32で、EF57の次位にいましたから、写真を撮っておきたかったですねぇ。
by 伊 謄 (2012-01-16 20:19) 

maipenrai

伊 謄さん
 そういえば、私も尾久駅でWルーフのスハ32をを撮ってます(あいにく牽引機は不明)。昭和40年代前半は、上野-青森直通の鈍行こそなくなってましたが、上野-一関、一関-青森なんて鈍行は普通に走ってましたから、けっこう広域で運用されていたのかも…。当時は客車の運用まで手が回りませんでしたが、調べてみると面白そうですね。

パルの大冒険さん
シュウチャンさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-01-17 17:35) 

FTドルフィン

ダブルルーフ!
キュウロクのキャブ
木が多く残る駅施設
はえたたき!

昭和42年
産まれてはいましたが3歳です(笑
この時代を旅したかったなぁ〜

by FTドルフィン (2012-01-21 08:38) 

maipenrai

FTドルフィンさん
 たくさんのnice&コメントありがとうございます。
 恥ずかしながら、あの電信柱を「はえたたき」と呼ぶとは、最近まで知りませんでした(ホントです)。言われてみれば…どなたのネーミングなんだろう、秀逸! そんな具合に、当たり前になにげなく存在して、意識にも止めなかったものが希少なものに見えてくる、今から何十年後かに、そんな具合に懐かしく思える物件って、何だろう? 私は生きていないと思いますが…。

くまくんさん
ねじまき鳥さん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2012-01-21 21:33) 

銀狼

42年の1月・・・
私はまだ生まれて5カ月目でした^^;
ですから記憶などあるはずもないですし、
行った事すらないのに、何故か懐かしく感じてしまいますね。。。
by 銀狼 (2012-01-22 02:23) 

maipenrai

銀狼さん
 そんなわけ(!?)で高校生の頃はまだ見ぬ北海道にはずっと憧れておりました。Fsが北海道に渡った時も、寂しくはあったけど、北海道ならいいよね、と思ってました。ヒコーキに乗れば羽田から一時間半。旨いもんはたくさんあるし(出費はかさむけど)今年も一度は「これはゼヒ札幌ドームに行かねば…」と思うようなシチュエーションを期待したいものです。
by maipenrai (2012-01-22 19:04) 

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