家から一番近い線路 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]

 生まれ育った実家の裏木戸を開けると、北側に向かって幅2メートルにも満たない路地が一直線に伸びています。途中からさらに道幅を狭め、人がようやくすれちがえるほどになった路地の突き当たりは、京成の線路。どぶをまたいで柵もない草が生い茂った高さ1メートルほどの斜面を登り線路に沿った犬走りに出る。目の前を朱色とクリーム色に塗り分けられた電車が走り抜けていきます。
01路地.JPG


 京成の下り優等列車に乗ると、江戸川駅の手前からフルノッチで加速し、鉄橋の上で最高速に達するとそのままの勢いで国府台駅を駆け抜け、勾配を下りながら前方に迫る急カーブに備え減速するあたり。今では江戸川の鉄橋が掛替えで嵩上げされ、同時に国府台駅も高架化されたため、地平からのアプローチ部分にあたるこの場所は、コンクリートの擁壁に視界を遮られていますが、かつては側道との境界に柵もなく、実家から歩いても2,3分と「ちょっと京成電車」を撮るにはもってこいの場所でした。
02_3100形東銀座行.jpg

(1)国府台駅にかけて緩い上り坂を駆け上る3100形。行先札は「東銀座」と読めます…ということは、撮影時期は1963年(昭和38年)3月以降? 同年12月には都営浅草線は新橋まで延伸されています。
(2)普段は一日一往復しか運転されていなかった「特急開運」号1600形。上りの「開運」が通過するのは、確か夕方に近い4時頃。
03_1600形開運.jpg


(3)国府台駅を通過、下り坂にかかる旧3000形4連の急行成田行き。急行マークがあんまり見慣れないデザインですが…。
04_3000形急行.jpg


(4)後追いで、やはり3000形の成田行き。菱形のマークは「通勤準急」だったかと…。
05_3000形通勤準急.jpg


(5)高架化前の国府台駅。江戸川の堤防の高さに合わせ土盛りされ、周囲より一段高くなっていました。3100形4連が回送マークを掲出して通過していきます。
06_3100形回送国府台.jpg


(6)同じ急行でも逆台形のマークを掲出した3100形の上野行。
07_3124以下急行上野行.jpg

 光線状態や葉を落とした立木をみると、(1)~(4)と(5)、(6)の撮影時期は違っているようです。電車の右側に見えるアパートは、私が小学生の頃は当時の大毎オリオンズの二軍合宿所に使われていました。近くの国府台球場ではよく二軍戦が行われていて、子供同士で見に行ったものです。当時のオリオンズは一軍の本拠も東京スタジアムだった頃。京成電車で一本ですものね。のちに「千葉ロッテマリーンズ」となって、千葉を本拠とする球団になったのも、あながち縁のないことではなかったんですね。
 そんなご近所にいたオリオンズの二軍選手に遊んでもらっていたくせに、私の贔屓の球団はは東映フライヤーズ。へそ曲がりなガキだったんだな…。

(7)国府台駅から坂を下り、右にカーブを切る線路の途中には狭い踏切が二つ。後追い逆光で写した急行上野行は「とね」のヘッドマークをつけています。線路端を歩く白衣の工員さんたち。地元で創業して全国ブランドになった「Yパン」の工員さんかな。
08_3100形急行とね.jpg


(8)数日前、実家に立ち寄ったときに(7)と同じようなカットを狙って…というより、電車を撮影できる場所が、踏切しかなかったんですね。
09_3008F.JPG


(9)江戸川の鉄橋の架け替えの時、少し下流側に移設したせいで、国府台駅に向かって、かつては真っ直ぐ上っていった線路は、左側にオフセットしたようになっていました。
10_3553.JPG


(10)踏切から市川真間方向を振り返る。このあたり、側道がないせいで、ただでさえ民家と線路が近接している市川市内でも、電車はとりわけ家の軒先をかすめるように走り抜けていきます。
11_3668F.JPG


 とりとめのない地元昔話(いつものことですネ)、お付き合いいただきありがとうございました。

【おまけ】
 記事をアップし終えたところで時計を見ると、節電ダイヤで運休していて、ようやく昨日から走りだしたイブニングライナー61号が京成八幡を通過する時刻…、ちょこっと行って撮ってまいりました。
12_EL61号.JPG


 夕方の陽のあるときに走るELはこれ一本。夏至は過ぎて、これからは少しずつ陽が短くなる…、今年はあと何回くらい撮れるでしょうか?
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hanamura

節電ダイヤですか…首都圏は大変そうですね。がんばろう日本!
自転車通勤なので、省エネには協力できているかな?
by hanamura (2011-06-29 05:39) 

nexus6

今の3000形の乗り心地など、文句のつけようがありません。 でも、お顔はやっぱり丸いおデコに一つ目の旧3000形、あるいは湘南電車顔がイイのです。

ところで、ステキな動画がありました。  「ぐんぐん京成」
http://www.youtube.com/watch?v=6Cb0GTwoh00&feature=related
撮影ポイントはご近所ではないでしょうか?
by nexus6 (2011-06-29 05:43) 

maipenrai

おはようございます。

hanamuraさん
 今朝も暑いです。エアコンのリモコンを手にしては「いやいや、まだイカン!」などと葛藤してます(笑)。京成の節電ダイヤでは、昼間各駅停車が20分やってこない駅が出来てしまってます。それでも暴動が起きない「総武線並行区間」(各駅5分30秒間隔)…。

nexus6さん
 おお! ご近所というより、まるで私が撮ったかのような(違いますけど…)。「ぐんぐん~」の歌も懐かしいですが、同じ投稿者の方の「特急編」「ライナー編」に写ってる佐倉近辺? の雰囲気もいいですね。今度出かけようっと。楽しい動画、教えていただき感謝です。

銀狼さん
manamanaさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-06-29 07:52) 

maipenrai

うつマモルさん
む~さん
駅員3さん
燕っ子さん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-06-29 20:49) 

gardenwalker

こんばんは
夕日を浴びる新型スカイライナー、やはり格好いいですね!
子供の頃に成田山へ初詣に行くのに乗った京成電車を思い出しました
とても懐かしいです
by gardenwalker (2011-06-29 23:46) 

maipenrai

gardenwalkerさん
 おはようございます。アクセス線を走るスピード感溢れる新AEもいいですが、ちまちました風景の京成本線を走る姿も魅力的ですね。朝夕しか撮れないんですが…。
by maipenrai (2011-06-30 07:04) 

Cedar

種別板・方向版全盛の頃の画像が懐かしいです。写真(5)(6)~多分昭和40年代前半~の当時は祖母が八千代台に住んでいて、京成に一番よく乗った時期です。
その頃は丸に急文字は都営直通急行、逆台形は上野~成田急行で、両者は停車駅も違っていました。確か○急のほうは津田沼から先は各停でした・・今の特急と快速の関係ですね。
<ぐんぐん京成>のCMソングは懐かしい、当時は私鉄がTV番組のスポンサーになっていましたね、京急の<赤いデンシャに白い帯>とか・・
近鉄提供~真珠の小箱、っていう番組は内容よりもビスタカーのCMが目当てで見てました。
by Cedar (2011-06-30 11:16) 

maipenrai

Cedarさん
 ご教示ありがとうございます。地元民のくせしてダメダメですね~。京成の種別版については◯準急と◇準急が早くから刷り込まれていて、「急行といえば護摩電」の時代が長かったのですが、40年代初頭から以降は種別が増えて「準急」が消えて…あとはなにがなにやら…です(あんまり乗っていなかった? 通学も国鉄だったし)。国府台や市川真間に優等列車が停まっていた頃が懐かしいですね。

あおたけさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-06-30 22:14) 

む〜さん

先般、八幡に京成を撮りに行ったとき、たしか、この辺り、小規模な門形高圧線があった筈と思ったんですが、思い違いだったと思いました。こうして、昔の写真を見入ると、ちゃんとありますね。こうして、門形鉄塔は消えてゆくみたいですね。
by む〜さん (2011-07-01 17:53) 

maipenrai

む~さん
 コメ返遅れ失礼しました。
 門型鉄塔といい、竹はしごの件といい、目の付け所が違いますねぇ私なんぞ。いわゆる「ハエタタキ」だって、この歳になって初めて名前を知ったくらいです。子供の頃は車両しか見ていなかったんでしょうね。こういう設備関係に注意しながら線路際を歩くと、別の楽しみが見えてくると思います。「目からウロコ」ってやつですね。
 ところで小田急といい東急といい京成といい、どうして昔の私鉄は門型鉄塔で自社線の上に高圧線を通していたんでしょう。給電を受けられる場所が限られていた、ってことでしょうか?

フジトモさん
 niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-07-02 19:30) 

む〜さん

門形高圧線と私鉄・・・・実際のところ、その理由はよく判りません。好き好き~っ!と言うだけで研究はしてないんですよ(笑)。つい先年までは、高圧線の直下には家が建てられませんでしたので、この辺の事情があったのかも知れません。線路だったら、問題は無さそうですから。
by む〜さん (2011-07-02 21:35) 

maipenrai

む〜さん
>高圧線の直下には家が建てられませんでしたので
 そうでした。子供の頃、高圧線下の広っぱがガキどもの遊び場でした。
 自社用の電源確保だけではなかったんですね。最近ではJRの線路用地が高速光ケーブルの通路になったり…と同じことなのかもしれませんね。
by maipenrai (2011-07-02 22:13) 

汐風黒潮

初めまして。昔、市川に住んでいたので1960年代から70年代にかけての総武線・房総東西線・京成には懐しさと思い入れがあります。
(3)(4)は非常に貴重な写真ですね。「あんまり見慣れないデザインですが」と書いていらっしゃいますが、それもそのはず、ほんの一時期しか使われなかったものですから。昭和38年、確か八幡に京成百貨店が開業した頃のダイヤ改正で誕生したマークです。
それまでのある時期、「準急」が東中山から各駅停車になっていたことがあり、それを再び津田沼から各駅停車に戻すことになった時です。混乱を避けるためか、「準急」のマークが菱形に横書きで準急、色もベージュに赤のふちどりつき、に変更されました。(「通勤準急」は従来通り菱形に縦書きで準急、色は白)カラーでないので色は確認できませんが、文字が横書きなので(4)は多分「その準急」のマークだと思います。そしてその改正で誕生したのが(3)の丸形に急の一字と鳥のようなデザインの「急行」です。停車駅は「準急と大して違わないじゃないか」と思った記憶があります(市川真間にも八幡にも停車した)。(3)(4)のマークはこのダイヤの時だけのものです。
その次のダイヤ改正で、「準急」のマークは昔の丸形に縦書き、に戻され、「急行」は停車駅を大幅に減らして(高砂‐東中山間ノンストップ)、マークも(6)のような台形に変更されました。ですから同じ「急行」でも同時期には存在していないので、ご推察の通り(3)と(6)の撮影時期は違うはずです。
話は飛びますが、昭和42年頃の大晦日の終夜運転も鮮明に覚えています。深夜の八幡駅に出かけて行き、跨線橋から10分毎に通過していく急行「迎春」号を飽きずに眺めていましたっけ。
以上つい懐しくなって長々と書いてしまい失礼しました。
by 汐風黒潮 (2012-08-16 01:05) 

maipenrai

汐風黒潮さん
 貴重なコメントありがとうございます。
 自分で撮った写真ながら、ほとんど記憶になかった種別標識。そういう事情があったのですね。「準急」マークはやはり子供の頃から慣れ親しんだ丸型白地に赤文字のものが記憶に鮮明です。一時期とはいえ、急行が市川真間に停車したことがあるというのもびっくりです。急行は護摩電はじめ不定期で、歩数も少なく、真間も八幡も止まらない、市川市民には無縁の存在と思っていました。そのぶん準急を利用する機会が多く、あのマークの記憶も残っているのだと思います。
 京成百貨店ができた時のことも覚えています。市川市内には、デパートと名のつくものが市川の三本松の消防署の隣にあった「つるやデパート」だけだったので、わくわくしながら見に行った記憶があります。
 その京成百貨店の建物も、一年ほど前に解体工事が終わり、同じ場所に京成の本社がやってくるというビルが立ち上がっています。
 貴重なお話を聞かせていただき感謝いたします。今後ともよろしくおねがいいたします。
by maipenrai (2012-08-16 15:09) 

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