総武沿線各駅停車今昔対比写真~05新小岩駅 [昔鉄(60年代の国鉄・私鉄)]
中野区に住む風来坊暮らしの友人(といってもいい年齢だけど)来訪。
開口一番「コメが手に入んないんですよ、あと2日ぶんくらいしかない」と。都内の一部では未だモノ不足が続いているようです。
以前の記事でも書きましたが、当地(といっても私の行動範囲ですが)ではコメの品薄状態は発生していません。日々刻々、情勢は変化するので2日前の体験はアテにはなりませんが、とりあえず22日付け記事で書いた西船橋の食品スーパーに彼を連れていきました。(過去記事は↓こちら)
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-03-22
2日前と状況は変りなく、コメ、野菜、魚、肉、どれも普通に売られていました。友人はコメ5キロをリュックに背負って帰還。なんだか戦後の買出し風景みたいだけど…。
ガソリンスタンドも、市川船橋界隈では2日前と情勢一変。通常営業しており、給油待ちの列も解消しています。まだまだ水や葉物野菜など、不安要因はあるにせよ、物不足パニックは収束に向かっていると確信しました。
ということで、いきなりお話は40数年前、総武線新小岩駅に飛びます(無理っぽい?)。
(1)夕陽をいっぱい浴びて、ハチロクが元気に入換作業中。新小岩駅の東のはずれ、平和橋通りのガードのあたりから撮っています。背後のビルはいまも健在の西友。島式ホームが一面しかなかった駅も背景に見えています。
(2)やはり新小岩駅の東側、小岩寄りを驀進するC58396(佐倉区)が牽引する上りの客レ。銚子発の324レでしょうか。左側に広がるのは新小岩操車場、そしてさらに奥には我が青春の地、新小岩機関区が…。操車場から総武線上り線へ合流するポイントが見えています。
(3)一方こちらは新小岩駅の西側、平井寄り。操車場の入換線はここまで続いていました。背後にある大きな工場は大同特殊鋼。夜ここを通ると、真っ赤に燃えた銑鉄が工場の中をあかあかと照らしていました。
(4)現在の姿です。ハチロクがいたあたりは快速線のホームに、工場は跡形もなく、大きなマンションがそびえています。
(5)ホームの平井寄りエンドから小岩方向を見ています。新小岩駅の乗降階段は39年当時は小岩よりエンドの一箇所で、階段を下りたところから通路が南口、北口に分かれていました。その後乗降客の増加に伴い画面右側の空きスペースに、南口からの通路を設置、ホームの真ん中あたりに繋がる階段が増設されました。茶色の総武線電車の先頭は、クハ79の最終新製車920番代、全金属のボディ、顔つきも完全に101系のプロトタイプですね。この写真の頃は、車齢10年にも満たない総武線旧国電の中ではピカイチの「新車」であります。なにしろ「方向幕」なんて洒落たものは101系登場まではこのクルマしかなかった…。ラッシュ時と昼閑時の端境に見られた飯田橋行き…、いつの間にかなくなっちゃいましたね。
(6)D51447の牽く小名木川行き貨物列車が、新小岩操車場を出発、電車を待つ人達を煙に巻き込みながら駅を通過していきます。ホームを電車10連化に向けて延伸した直後でしょうか、ホームの上屋は遙か向こうで途切れ、敷石も真ん中は省略、砂利が敷き詰められています。西友のビルはまだ工事中なんでしょうか?
(7)現在の風景。西友は今だ健在、営業中です。
(8) (6)と同じ地点から、平井方向に振り返る形で撮影したC57164(岩)牽引の客レ。これは夕方一番の勝浦行きかな? 離合する上り電車はカナリア101系。
(9)季節は違いますが、同じ場所で、クモハ41を先頭とする下り電車。中川/荒川放水路の橋梁に向けて、線路はS字のカーブを描いています。左右の敷地にも余裕がありますね。線増工事の時、さぞ役立ったことでしょう。
(10)現在の線路は鉄橋に向けてほぼまっすぐに取り付いています。見づらいですが、鉄橋の上、中川と荒川放水路を隔てる土手上には、首都高速中央環状線が建設されました。
(11) (9)のSカーブを行く逆向ハチロク68649+C57の貨物列車。C57は両国からの下り客レ牽引の送り込みです。西友のビルを除けば、高いビルは皆無、木造のアパートや民家が密集していた昭和40年頃の新小岩風景でした。それにしても空が広いなぁ…。
あの震災以来、鉄分ゼロの身辺雑記記事が増えている当ブログ。毎日のようにやってくる「計画停電」は、戦争を知らない世代である私にとっていままで経験したことがない出来事ですし、停電時間を中心に日々の生活のスケジュールを回しているのも確かなので、題材にも取り上げているわけですが…。
私自身はちょっと誤解されそうな言い方ですが、いまのところ計画停電という「イベント」を楽しんでいるフシがあります。停電することがわかっていれば、かつてのように惰性でダラダラするわけにもいかず、停電開始時間を睨みながら制限時間内に必要なことをなんとか片づけ、電気が止まれば所在のない時間を過ごす…。ある意味ONとOFFのメリハリの効いた日常で、そんなに悪いもんでもありません。
とはいえもちろんこれは私自身と家族が、毎日3時間電気を止められてもなんとかなる立場にいるからいえること。現実に仕事や営業にならない事業所や商店、子供や老人のおられる家庭のご苦労、さらには医療関係や、信号の消えた交差点での事故など、生命の危険にさらされている方がいることは承知していますので、今の東電のやり方に賛同する気はサラサラありませんが…。
特にネットや一部報道で次第に明らかになってきた東電管内における停電をする地域としない地域の存在。また計画停電地域に指定されている中で「必ず停まる地域」と「停まらない地域」が存在するという「不公平」問題は、多少手の空いたときで構わないので東電にはきっちりと説明責任を果たしてもらいたいところです。「原発でそれどころではない」っていうのも、わからないではないですけどね。
でないとこの先、確実に電力危機が訪れるだろう、夏場や次の冬場には暴動が起こっても不思議はないところまで、事態はきていると考えています。
開口一番「コメが手に入んないんですよ、あと2日ぶんくらいしかない」と。都内の一部では未だモノ不足が続いているようです。
以前の記事でも書きましたが、当地(といっても私の行動範囲ですが)ではコメの品薄状態は発生していません。日々刻々、情勢は変化するので2日前の体験はアテにはなりませんが、とりあえず22日付け記事で書いた西船橋の食品スーパーに彼を連れていきました。(過去記事は↓こちら)
http://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-03-22
2日前と状況は変りなく、コメ、野菜、魚、肉、どれも普通に売られていました。友人はコメ5キロをリュックに背負って帰還。なんだか戦後の買出し風景みたいだけど…。
ガソリンスタンドも、市川船橋界隈では2日前と情勢一変。通常営業しており、給油待ちの列も解消しています。まだまだ水や葉物野菜など、不安要因はあるにせよ、物不足パニックは収束に向かっていると確信しました。
ということで、いきなりお話は40数年前、総武線新小岩駅に飛びます(無理っぽい?)。
(1)夕陽をいっぱい浴びて、ハチロクが元気に入換作業中。新小岩駅の東のはずれ、平和橋通りのガードのあたりから撮っています。背後のビルはいまも健在の西友。島式ホームが一面しかなかった駅も背景に見えています。
(2)やはり新小岩駅の東側、小岩寄りを驀進するC58396(佐倉区)が牽引する上りの客レ。銚子発の324レでしょうか。左側に広がるのは新小岩操車場、そしてさらに奥には我が青春の地、新小岩機関区が…。操車場から総武線上り線へ合流するポイントが見えています。
(3)一方こちらは新小岩駅の西側、平井寄り。操車場の入換線はここまで続いていました。背後にある大きな工場は大同特殊鋼。夜ここを通ると、真っ赤に燃えた銑鉄が工場の中をあかあかと照らしていました。
(4)現在の姿です。ハチロクがいたあたりは快速線のホームに、工場は跡形もなく、大きなマンションがそびえています。
(5)ホームの平井寄りエンドから小岩方向を見ています。新小岩駅の乗降階段は39年当時は小岩よりエンドの一箇所で、階段を下りたところから通路が南口、北口に分かれていました。その後乗降客の増加に伴い画面右側の空きスペースに、南口からの通路を設置、ホームの真ん中あたりに繋がる階段が増設されました。茶色の総武線電車の先頭は、クハ79の最終新製車920番代、全金属のボディ、顔つきも完全に101系のプロトタイプですね。この写真の頃は、車齢10年にも満たない総武線旧国電の中ではピカイチの「新車」であります。なにしろ「方向幕」なんて洒落たものは101系登場まではこのクルマしかなかった…。ラッシュ時と昼閑時の端境に見られた飯田橋行き…、いつの間にかなくなっちゃいましたね。
(6)D51447の牽く小名木川行き貨物列車が、新小岩操車場を出発、電車を待つ人達を煙に巻き込みながら駅を通過していきます。ホームを電車10連化に向けて延伸した直後でしょうか、ホームの上屋は遙か向こうで途切れ、敷石も真ん中は省略、砂利が敷き詰められています。西友のビルはまだ工事中なんでしょうか?
(7)現在の風景。西友は今だ健在、営業中です。
(8) (6)と同じ地点から、平井方向に振り返る形で撮影したC57164(岩)牽引の客レ。これは夕方一番の勝浦行きかな? 離合する上り電車はカナリア101系。
(9)季節は違いますが、同じ場所で、クモハ41を先頭とする下り電車。中川/荒川放水路の橋梁に向けて、線路はS字のカーブを描いています。左右の敷地にも余裕がありますね。線増工事の時、さぞ役立ったことでしょう。
(10)現在の線路は鉄橋に向けてほぼまっすぐに取り付いています。見づらいですが、鉄橋の上、中川と荒川放水路を隔てる土手上には、首都高速中央環状線が建設されました。
(11) (9)のSカーブを行く逆向ハチロク68649+C57の貨物列車。C57は両国からの下り客レ牽引の送り込みです。西友のビルを除けば、高いビルは皆無、木造のアパートや民家が密集していた昭和40年頃の新小岩風景でした。それにしても空が広いなぁ…。
あの震災以来、鉄分ゼロの身辺雑記記事が増えている当ブログ。毎日のようにやってくる「計画停電」は、戦争を知らない世代である私にとっていままで経験したことがない出来事ですし、停電時間を中心に日々の生活のスケジュールを回しているのも確かなので、題材にも取り上げているわけですが…。
私自身はちょっと誤解されそうな言い方ですが、いまのところ計画停電という「イベント」を楽しんでいるフシがあります。停電することがわかっていれば、かつてのように惰性でダラダラするわけにもいかず、停電開始時間を睨みながら制限時間内に必要なことをなんとか片づけ、電気が止まれば所在のない時間を過ごす…。ある意味ONとOFFのメリハリの効いた日常で、そんなに悪いもんでもありません。
とはいえもちろんこれは私自身と家族が、毎日3時間電気を止められてもなんとかなる立場にいるからいえること。現実に仕事や営業にならない事業所や商店、子供や老人のおられる家庭のご苦労、さらには医療関係や、信号の消えた交差点での事故など、生命の危険にさらされている方がいることは承知していますので、今の東電のやり方に賛同する気はサラサラありませんが…。
特にネットや一部報道で次第に明らかになってきた東電管内における停電をする地域としない地域の存在。また計画停電地域に指定されている中で「必ず停まる地域」と「停まらない地域」が存在するという「不公平」問題は、多少手の空いたときで構わないので東電にはきっちりと説明責任を果たしてもらいたいところです。「原発でそれどころではない」っていうのも、わからないではないですけどね。
でないとこの先、確実に電力危機が訪れるだろう、夏場や次の冬場には暴動が起こっても不思議はないところまで、事態はきていると考えています。
1枚目の86が躍動的でいいですね。
木製の貨車も懐かしいです。
お米にお水に、生活の根本が危ういですね。
by manamana (2011-03-25 00:27)
新小岩もすっかり寂しくなりました、もちろん町の話ではなく線路が・・・
当時ヤード中ほどにかかっていた長い人道橋があって、撮影スポットでした。
by Cedar (2011-03-25 00:47)
おはようございます。
manamanaさん
学校帰りに写していたんでしょうね。夕陽がきれいに当たってくれてます。新小岩には貨車専門の工場があって面白い貨車がけっこう見られたんですよ。
Cedarさん
ヤードの横幅が半分以下に、北側は売却されてマンションやグラウンドになってしまいました。それでも時折、国鉄型の電気機関車が止まっていたりすると、ちょっとワクワクします。
>ヤード中ほどにかかっていた長い人道橋
小松橋のことですね。いらっしゃったことがあるんですか? 橋はいまも健在ですが、撮影できるのかな(金網問題等)。こんど行ってみるつもりです。
by maipenrai (2011-03-25 08:00)
ただいま停電より復帰。
ロクさん
はじめまして。チンク、欲しいなぁ。大好きです。niceありがとうございます。
銀狼さん
niceありがとうございます。スカイラインは今更ムリですが、地元・鎌ヶ谷情報もできるだけupするつもりですので、今後ともよろしくお願いいたします。
kiyoさん
はじめまして。NSX、畏れ多い…かも。これからもよろしくおねがいします。
by maipenrai (2011-03-25 20:56)
フジトモさん
素人写真さん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-03-26 08:06)
nexus6さん
ほりけんさん
ねじまき鳥さん
niceありがとうございます。
by maipenrai (2011-03-26 19:28)
高圧線の門形鉄塔が素敵ですね。総武線と言えば私にはモハ41です。砲弾型の前照灯が記憶にあります。なんとなく、造りが丁寧に感じたものです。
停電・・・・私の子供時代には日常でありました。もちろん、無警告で消えるのです。子供の私にとって、『電気は消えるもの』でありました。一家で食卓を囲む夕食時の照明は、蝋燭のときもあれば、天井から吊るした、3Vの豆電球の時もありました。あの、フィラメントのオレンジっぽい輝きを忘れません。現在は発光ダイオードを使ってますが・・・・・。
停電エリアの不公平は、何故か大きく取り上げられず、不満はつのるばかりです。ともかく、電力がないのですから、その原因は、一応、置いておくとして、ともかく、なんとか上手く使いまわしてゆかねばなりません。協力するにやぶさかでは無いのですが、公平でないと、協力は得られないでしょう。
by む〜さん (2011-03-26 21:26)
む〜さん
こんばんは。停電のない週末はほっとしますね。
砲弾型前照灯のクモハ41は記憶に残っているんですが、どうも写真は撮っていないようです。クハ55やサハ57などの三扉の一族は、73系と比べると座席もゆったり、車内の造り付けも丁寧だったような気がします。
こんな時期にあまり不穏当なことは言いたくないのですが、計画停電のことや、鉄道の運転状況、復旧状況を見るにつけ、なにか「都心部を活かすために周辺部を見棄てる」というような意志、メカニズムが働いているような気がしてなりません。
by maipenrai (2011-03-26 23:10)
初めまして、貴重な写真を拝見できた事に感謝いたします。
(4)(7)の写真ですが、複線時代のホームは現在の快速線ホームの位置だと思います。
南口駅舎とホームの間にあった通路のスペースにコンクリート高架橋の緩行線ホームを作り、
元のホームを壊して快速用のホームを造り直したようです。
そのため、現在でも快速用ホームは高架橋ではなく築堤上にあります。
ちなみに、数年後に新小岩駅は南北共に駅舎が無くなります。
高架下に集約されます。既に工事は始まっています。
http://www.city.katsushika.lg.jp/30/132/13738/013459.html
(9)写真で、ホームと荒川中川橋梁の間でS字カーブを切ってますが、
放水路開削前の地上線時代は真っ直ぐで、この延長上に初代の旧線跡が残っていました。
この旧線跡ですが、文章や航空写真ではわかっているのですが、直近で写した写真は見たことがありません。
ホームと荒川中川橋梁の間にある西井堀橋梁(どぶ川の橋)もあるのですが、この写真もみかけないですね。
特に、大同の工場側から西井堀橋梁を写した写真は。
現在でも複線時代の西井堀橋梁跡の橋台は残っており、
現在の総武線は地上線時代の旧線跡の上に作られたということになります。
自分の記憶は快速ホームが出来上がる直前までなので、複線時代は資料や写真でしかわからないのですが、
線路位置の移り変わりはこんな感じだと思います。
by ゆ (2014-08-09 02:56)